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3億2000万円。


 見渡す限りの木々山々、鳶の声が空高くから聞こえ、時折害獣除けの空砲が鳴り響く。

 そんな景色を2階から眺めて8日目。

 日向さんに会いたいな……


 おまちで見るような車が家の前に止まっている。

 お客さんだろうか。


 する事がないので卒業アルバムや思い出の写真を見ている。

 この頃は誰かに恋をするとか考えもしなかった。

 

 私の隣にはいつも仲良しの詩音(しおん)ちゃんがいた。

 高校から離れ離れになってしまったけれど、今でも私の一番の友達。


 懐かしい気持ちで外を眺めていると、誰かが遠くから手を振っている。

 誰だろう……


 外に出たくても、階段に扉をつけられて鍵が掛かっているので出られない。


 そんな扉の鍵が開く音がした。

 下の階から呼び出され向かうと見知らぬ男性がこちらを見て会釈してきた。


「雫、自己紹介しなさい」


「は、はじめまして……雨谷雫です」


 なんだか空気がピリピリとしている。

 この人は一体誰なんだろう。


「雫、彼と結婚しなさい。式の段取りはこちらでする。彼は頭も良いし育ちも十分、彼なら不自由なく幸せに暮らせるだろう」


「けっ……こん…………?」


 何を言っているんだろう。

 私には日向さんがいるのに……

 好きな人、好かれている人。


 私の幸せって……


「雫さん、長い人生ですからこれからゆっくりと知り合っていきましょう。家政婦を雇うので、雫さんは自由に過ごして下さい。決して苦労はさせません」


 自由……


「雫、返事をしなさい」


「…………い、いやです。ごめんなさい」


「なっ……何を言っている!! お前の為に……何故分からんのだ!!!」

   

「ねぇお父さん聞いて? 私ね── 」


「私に逆らった事など無かった筈だ!! お前を思ってここまで育て、ここまでしてやっているんだ!! 私の顔に泥を塗る気か!!! お前は彼と結婚して幸せになりなさい!!! 分かったか!!!!」  


「……分かりません」


「このっ───!!!!」


 振り上げた手は勢いよく頬へと向う。

 瞬間、私の体が後ろに引っ張られて手の平は空を切る。


「叩くの好きだね、ホント」


 後ろから聞こえる声、匂い、温もり、感触……

 足りなかったモノが埋まっていく。

 私の好きな人。

 大好きな人。


「日向さん…………」


 声にならなくて、涙が止まらない。

 いつもより強く抱きしめてくれるその力に、日向さんの想いが伝わってくる。


「遅くなってごめんね。帰ろっか」


「ふざけるな!! 私の娘から離れろ!!」


「ハァ……あのね、一週間もあったのになんで娘の言葉を聞いてあげなかったの?」


「雫は私の言う事に背いた事は無い!! キサマが唆したからだろう!!? 素直で良い子だった……キサマが─── 」


 怒り狂うお父さんに、日向さんは軽くデコピンをした。

 その突然の出来事に、あっけらかんとしている。


「いいから娘の話を聞きなさい、分かった? 雫、大丈夫だから。話してごらん?」


 肩をポンポンと叩くと、優しく微笑んでくれた。

 力がスッと抜けていく。


「私は……私は日向さんとじゃなきゃ幸せになれない。初めてできた好きな人なの。良い時も悪い時も、日向さんが隣にいてくれるから日々が愛しく感じて……こんな私でも…………少しは可愛くなれる気がして。お父さんにはいつも感謝してます。私がこうしていられるのはお父さんのおかげ。家族の幸せを願うのが当たり前だから、私はいつもお父さんの期待に応えるようにしてきたよ。でも、私の幸せを誰よりも考えてくれる人に出会えたから……私はその人を幸せにしてあげたい。私を必要としてくれているんです。人生は一度きりだから…………だから後悔したくないんです。私は日向さんと一緒にいます」


 暫く沈黙が続いた。


 私の気持ちは伝えられたけど、お父さんには届いていないみたいで……

 地団駄を踏んで舌打ちをしている。


「ここまで…………ここまで育てるのに幾ら掛かったと思っている!! ここまでしてやっているのに……何故分からない!?」


「…………子どもが社会人になるまで育てるのに必要なお金、2000万」


 そう言って日向さんは床に札束を投げ始めた。

 キャリーケースの中にはお金がビッシリと詰まっている。


「これが生涯暮らすのに必要なお金、3億っ!!」


 キャリーケースごと蹴飛ばして、日向さんはお父さんを睨んでいる。

 思えば、怒っている日向さんを見たのは初めてかもしれない。


「ここまでしてやった? 勝手に産んでおいてよく言えるよね……子供は親も環境も選べない。だったら……その先の生きる道くらい自分で選ばせてよ! 私達の人生はね、私達のモノなんだから! 雫、帰るよ」

  

 私を引っ張る日向さんの手からは、怒りよりも悲しみの感情が伝わってきて……

 私はただ強く手を握ることしか出来なかった。


    ◇


 日向さんの車の前では誰かがキョロキョロしている。

 あれって……


「詩音ちゃん!! どうしてここに? 名古屋に下宿してるんじゃなかったの?」


 私の一番の親友、詩音ちゃん。

 そっか、さっき手を振っていたのは詩音ちゃんだったんだ。


「爺ちゃんの三回忌でたまたまね。麓でバスを待ってたら日向さんが……いやもう色々聞きたいんだけど時間なさそうだし……雫、携帯の番号教えてよ! 成人式来なかったでしょ?」


「うん……あっ、でも電話お父さんに取られちゃった……」


「詩音さん、私ので良いなら交換しよ? この名刺に全部書いてあるから」


 別れ際、サインと写真を撮って詩音ちゃんは満足気な顔で手を振ってくれた。


「詩音さんがこの村まで案内してくれてね。いなかったら辿り着いてなかったと思う。聞いてた以上に山の中だね」


 運転しながら苦笑いをしているけど、なんだかいつもと声色が違う。

 悲しみの色。

 思わず抱きついてしまって、日向さんは車を際に寄せた。


「……バレちゃった?」


「…………はい。恋人ですから。」


 一週間ぶりの日向さん。

 抱きつく力は強くて、お互い離れようとはしない。

 2回目の大人のキス、胸の高鳴りが止まらない。


 上手く息が吸えなくて溺れてしまいそうだけど、それがなんだか嬉しくて……

 

 そんな私を見て、日向さんは優しく頭を撫でてくれる。


 気がつくと日向さんの胸の中で寝てしまっていた。


「あれ……私、寝ちゃってました……?」


「おはよ。もう夕方だけどね」


 笑いながら日向さんはお水を飲んでる。

 物欲しそうな顔をしてしまったのか、日向さんが口移しで私に飲ませてくれた。


「……美味しい?」


 恥ずかしくて頷く事しか出来ない。

 でも、恥ずかしい事がこんなにも幸せだなんて……


「あーあ、3億2000万は渡しすぎたかな? カッコつけすぎちゃったね」


「あ、あんなに置いてきて大丈夫でしたか?」


「うん。マンション売ったお金だから」


「えっ!? ご、ごめんなさい!! 私のせいで……」


「ううん、私がそうしたかったからしただけ。運良く安く買ったマンションだから、そんなに痛くないよ。貯金もちょっとはあるし……一緒に住む家探そ? 庭付き一軒家が良いなぁ」


 申し訳なくて暫くは俯いていたけど、日向さんが嬉しそうに未来の事を語ってくれるから、私も明るくなれる。


「……ラーメン食べませんか? この先に知ってるお店があるんです」


「ふふっ、食べよっか♪」


 いつもだったら、別々のものを頼んで分け合うのだけれど、今日は二人で同じものを頼む。


 私達は、お互いを求めあっている。


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