『 ほどけたグリップ 』
目次
1. ほどけない手
2. 砂糖を置いてきた町
3. 東京は名前を変える
4. 撮らない男
5. 夜の線、昼の線
6. いちばん甘い危険
7. 塩の決断
8. 海の向こうの冷蔵庫
9. ことばの事故
10. 霧のレッスン
11. 名札の擦れた理由
12. いちばん短い英語
13. 帰国、同じ場所の違う光
14. 小さなクラス
15. 砂糖の誘い
16. 線を引く
17. 余韻としての炭酸
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## 1. ほどけない手
ユナは、自分がものを強く握りすぎる癖があると、前から知っていた。
ゴルフクラブも、ドアノブも、人の期待も。
手放した瞬間に、何か大切なものが落ちてしまう気がして、いつも指に力が入る。
力を抜くと、不安が一気に流れ込んでくる。
別府の駅で、元恋人の航平が差し出した小さな紙袋を受け取ったときも、ユナは無意識にそれを握りしめていた。
「砂糖と塩、間違えるなよ」
航平は笑った。
ユナは笑えなかった。
紙袋の中身は、小さなラベルライターだった。透明テープに黒い文字が打てる。
ユナは指で角を撫でた。安いプラスチックの感触なのに、不思議と胸の奥がほどけるようだった。
「応援してる?」
聞かなくても分かるのに、聞いてしまう。
航平は視線を落とし、靴の先で床の線をなぞった。
「応援は、してる」
言い直すみたいに続けた。
「でも、遠くへ行く君を応援すると、俺の足が止まる気がする」
悪者がいない。間違いもない。
あるのは、同じ方向を向けなくなった事実だけ。
ユナはラベルライターを紙袋にしまった。この痛みは塩みたいに小さくして、あとで舐める。
けれど握りしめた手は、なかなか緩まなかった。
「じゃあ、止まらなくていいよ」
言葉が先に出た。自分で驚くほど静かな声だった。
電車が来る音が、湯気を切る刃みたいに響く。ユナは乗り込み、窓越しに航平を見た。
彼は手を上げなかった。代わりに胸の前で小さく拳を握り、それをほどいた。応援の形が、きっと彼にはそれしかなかった。
――ほどけないグリップは、いつか痛みになる。
その意味を、このときの彼女は、まだ知らない。
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## 2. 砂糖を置いてきた町
別府を出る朝、駅のホームは湯の匂いがした。白くやわらかい湿気が、世界の角を丸くしている。
母が握らせてくれた煮豆の甘さが、喉の奥でほどけずに残っていた。
“砂糖みたいな町”は、ユナの背中を押さない。
ただ温めて、守ってくれる。
だからこそユナは、そこにずっといる自分が怖かった。
守られたままでは、何も掴めない。
掴めないままでは、何も選べない。
握りしめた紙袋の中で、ラベルライターが小さく鳴った気がした。
プラスチックが擦れる音。
それは、未来の音だった。
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## 3. 東京は名前を変える
東京の空は低い。人は多い。駅の匂いは金属と香水が混ざっている。
昼は練習場。夜は銀座。ドレスに着替えると、体温が一段落ちる気がした。
「話しやすいね」
「癒される」
「気が利く」
褒め言葉が積もるほど、息が浅くなる。
――私、何を売っているんだろう。
練習場でクラブを握るときだけ、手のひらが戻ってくる。摩擦、汗、握り返す感覚。
けれどその“戻り方”が、いつも強すぎた。
握りしめればしめるほど、クラブは暴れる。ボールは曲がる。体が硬くなる。
飛ばない日は、東京が急に冷たい。
その冷たさを引きずったまま銀座に立つと、灯りがやけに眩しかった。眩しさは、ときどき刃になる。
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## 4. 撮らない男
蓮と出会ったのは、練習場だった。撮影の下見で来ていたらしい。
「すみません、ここって夕方、逆光どうですか」
ユナが答えると、彼は頷いてメモを取り、必要以上に踏み込まない距離のまま去った。
近づきすぎない。踏み込みすぎない。
その余白が救いのように見えた。
次に会ったとき、ユナが自販機の前で小銭を落とすと、蓮は先に拾って渡した。
「僕、蓮って言います。撮影の仕事で」
名刺を差し出さない。ただ名前だけ置くみたいに言う。
ユナは咄嗟に銀座の“仕事の名”を言いそうになって飲み込んだ。
「ユナ、です」
本名に近い、でも完全ではない名前。それでも胸が少し暖かくなる。
「ユナさん。上手くなるの、早そうですね」
褒め言葉に値札がついていない。
その日、蓮はカメラを持ち上げかけて、下げた。
撮らない。
「今日は、撮る日じゃない気がして」
その“気がして”が、真面目だった。
撮られないことが、こんなに楽だと、ユナは知らなかった。
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## 5. 夜の線、昼の線
蓮と会う頻度は増えた。練習場で少し話す。帰り道に缶コーヒーを飲む。
彼は多くを語らないが、嘘もつかない。
ある夜、銀座へ向かう途中で蓮とすれ違った。
彼は驚いた顔で言った。
「……ユナさん?」
ユナはコートの下のドレスを意識しながら、短く答えた。
「仕事」
説明しない。説明すると、相手の目が変わるのが怖かった。
蓮は目を伏せて、すぐ戻した。
「頑張ってますね」
哀れまない。変に優しくもしない。ただ事実として置く。
その言い方に救われて、ユナは笑った。
「頑張ってます。……頑張り方、間違えてる気もするけど」
蓮は少し間を置いて言った。
「間違えてるって思えるうちは、まだ大丈夫だと思います」
“まだ”という言葉が、ユナの胸に引っかかった。
大丈夫じゃない日が、いつか来るのだろうか。
その日が来たとき、自分の手は、何を握りしめるのだろう。
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## 6. いちばん甘い危険
大丈夫じゃない日は、案外早く来た。
その夜、店の個室で、常連の男がユナの手首を強く掴んだ。笑いながら、軽い冗談のように。
「今日は帰さないよ」
冗談の形をした命令。
ユナは笑顔を貼り付けたまま、背中の皮膚が冷えるのを感じた。
ここで拒めば、場が壊れる。拒まなければ、自分が壊れる。
笑顔の裏で、息が細くなる。
――線を引けない人間は、いつか誰かの都合で折れる。
ユナは、相手の手首を振り払えなかった。
代わりに、自分の指を強く握った。
爪が皮膚に食い込み、痛みが走る。
――離したら、すべてが崩れる。
そう信じてきた人生だった。
でもその夜、初めて思った。
――握り続けることで、壊れるものもある。
帰りのタクシーの中で、ユナは吐きそうになった。
灯りが流れていく。銀座の眩しさが、今度は眩しすぎて痛い。
部屋に戻ると、手が震えた。
ユナは机の引き出しから、ラベルライターを取り出した。
透明テープが冷たい。
何を書けばいいか分からない。分からないのに、指だけが動く。
**SALT**
打った文字が、薄い灯りに浮いた。
塩。痛み。現実。
今夜の自分に必要なのは、砂糖じゃない。塩だ。
スマホが震えた。蓮からだった。
「大丈夫ですか」
どうして分かるのか。撮ってもいないのに。
ユナは返事を打って消し、打って消し、最後に短い一文を送った。
「大丈夫。ありがとう」
“ありがとう”だけが残る夜は、胸の奥が長く痛む。
痛みのせいで、手の力が少しだけ抜ける。
それが怖くて、また握り直した。
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## 7. 塩の決断
翌朝、練習場でクラブを握っても、手が戻ってこなかった。
グリップが遠い。自分の体が借り物みたいだ。
強く握るほど、クラブは硬く、体はもっと硬くなる。
コーチが言う。
「もっと振れ。結果出したいんだろ」
言葉は正しい。でも目が、体ではなく結果を見ている。
ユナはふと思った。
――私は、上手くなるために壊れたくない。
――続けるために、上手くなりたい。
帰り道、蓮と缶コーヒーを飲んだ。
ユナは言った。
「留学、行きます。ニュージーランド。ゴルフ」
蓮は驚いた顔をした。すぐに笑顔にはしなかった。
「……すごい」
少し遅れて言った。
「でも、今じゃなくても……」
その“今じゃなくても”が、航平の言葉と似ていた。
止めない。でも、信じきれない。悪気はない。
温度差が塩みたいに沁みる。
ユナは頷いた。
「今じゃないと、たぶん行かない。私は、そういうタイプ」
蓮は口を開きかけて閉じ、代わりに言った。
「行くなら、ちゃんと食べて寝て。体、壊したら意味ない」
それは応援だった。
でも恋の匂いはしなかった。
ユナはその距離を“ちょうどいい”と呼ぶことにした。
夜、銀座の更衣室で、ユナはママに言った。
「しばらく休みます。留学に行くので」
ママは一瞬驚き、それから笑った。
「いいじゃない。行きなさい。あなた、そういう人だもの」
ユナは初めて、自分のために線を引けた気がした。
握りしめていた何かが、少しだけほどける。
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## 8. 海の向こうの冷蔵庫
ニュージーランドの空は広かった。広すぎて、最初は怖かった。
ホームステイ先で困ったのは冷蔵庫だった。牛乳がどれか分からない。砂糖と塩も、見た目が似ている。
ユナは紙袋からラベルライターを出し、透明テープに打った。
**SUGAR**
**SALT**
ぎこちない指で貼る。貼った瞬間、世界が少しだけ自分のものになる。
“分からない”が、少しだけ減る。
ホストマザーがそれを見て笑った。
「Oh, smart!」
“smart”だけ聞き取れて、ユナは笑って頷いた。
笑いながら、涙が出そうになった。言葉が足りない場所で、工夫は祈りみたいになる。
その夜、ユナは自分の手を見つめた。
強く握りしめた指の跡が、まだ残っている。
ここでは、その跡を少しずつ消していくのだと思った。
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## 9. ことばの事故
事故は、些細なところで起きた。
ある日、練習場でコーチが早口で何か指示した。ユナは分かったふりをして頷き、皆の後を追った。
気づけば、別の組の練習ラインに入っていた。
「No! No!」
コーチの声。周囲の視線が刺さる。
ユナは固まった。
言い訳できない。説明できない。
頭の中が真っ白になる。霧が胸の中に入ってきて、呼吸が浅くなる。
“分からない”は、ただの情報不足じゃない。
ここにいていいのか分からなくなる恐怖だ。
ホストファザーが迎えに来た帰り道、ユナは車の中で初めて泣いた。
悔しさじゃない。恥ずかしさでもない。
“ここにいていいのか分からなくなる”怖さだった。
部屋に戻っても、喉が固い。
ユナは鏡の前で口を開け、声を出してみた。
「Help」
小さく、かすれた。
そのとき、ドアがノックされた。
ホストマザーが、紙を一枚差し出した。
太いマジックで、ひらがなと英語が並んでいる。
「たすけて」
「help」
ユナは紙を受け取り、息を吸って言った。
「…help」
言えた瞬間、体のどこかが戻ってきた。
世界は怖い。でも、怖いと言える。
その夜、ユナはラベルライターで新しいラベルを作った。
**HELP**
冷蔵庫の扉の内側に貼る。
自分だけが見る場所に。
それは“ほどく”ための合図だった。
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## 10. 霧のレッスン
翌朝、霧が濃かった。芝が濡れて、靴下まで冷える。
練習場の隅に、年配のスタッフがいた。名札の文字は擦れて読めない。手が大きく、動きが静かだ。
ユナのスイングを見て、彼はほとんど何も言わなかった。
ユナが右へ曲げ続け、悔しさで唇を噛んだとき、彼は初めて近づいた。
ハロルドは、ユナのクラブを持つ手に、そっと触れた。
指を一本ずつ、外すように。
「Too tight」
彼はそれだけ言った。
ユナは息を吐き、指の力を抜いた。
怖かった。落ちる気がした。
でも、落ちなかった。
次の一球が、真っ直ぐ飛んだ。霧の中を切って、音が遅れて返ってくる。
ユナは笑ってしまった。笑いが咳になり、最後に涙になった。
悔し涙じゃない。
伝わった涙だった。
年配スタッフは、少しだけ目を細めて言った。
「You… teach. Someday.」
“教える”という単語だけ、はっきり聞こえた。
ユナの胸が熱くなる。
上手くなるためじゃない。続けるために。
続ける誰かのために。
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## 11. 名札の擦れた理由
数日後、ユナは年配スタッフの名前を聞いた。
「ハロルド」
ただ、それだけ。
彼は名札を指でなぞり、笑った。
「Old. No need.」
古い。必要ない。
言葉は短い。けれど、そこに長い時間が詰まっている。
ユナが勇気を出して聞く。
「Why… name… erased?」
なぜ名前を消すのか。
ハロルドは少しだけ黙り、手首を軽く振った。
そこに、薄い傷跡があった。
彼は空を見て、短く言った。
「Famous… before. Hurt.」
昔、名があった。怪我をした。
そして、ユナを見た。
「Name… heavy. Teaching… light.」
名は重い。教えるのは軽い。
軽いというのは、価値がないという意味じゃない。
体に届く、という意味だ。
ユナは霧の朝の感覚を思い出した。短い言葉が、体を動かす。
――私は、重い名札じゃなく、軽い仕事をしたい。
――人を壊さない仕事を。
ハロルドは最後に、ユナの手を見て言った。
「Loosen… but don’t drop.」
ほどけ。だが落とすな。
ユナはその言葉を、指の関節に刻んだ。
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## 12. いちばん短い英語
夜、ユナは英単語帳を開く。でも覚えるのは単語ではなく短い言葉だった。
Please.
Sorry.
Thank you.
Help.
いちばん短い英語が、いちばん強い。短いほど心臓まで届く。
ユナは蓮にメッセージを送った。
「今日は、練習で間違えて泣いた。でも、helpって言えた」
長い文章は書けない。書いたら気持ちが嘘になる。
返信はすぐ来た。
「言えたの、すごい。…僕は、言えないこと多い」
その一文が、ユナの胸に残った。
蓮にも“言えない”がある。
ユナは画面を握りしめそうになって、指をほどいた。
握りしめても、言葉は増えない。
ほどけば、息が入る。
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## 13. 帰国、同じ場所の違う光
春、ユナは帰国した。東京の空は相変わらず狭いのに、前より息ができた。
体の中に霧の時間が残っている。
練習場へ行くと、ボールの音が違って聞こえた。
当たる音が少し丸い。空振りの音も、以前ほど痛くない。
蓮がいた。いつものキャップ、カメラバッグ。
「おかえり」
“おかえり”が、東京の言葉に聞こえなかった。遠い場所で言われる温度だった。
ユナが打つ。球が真っ直ぐ飛ぶ。派手じゃない。
でも“続けてきた”飛び方だ。
蓮はカメラを構えた。構えたのに、シャッターを切らない。
指が動かない。
ユナは笑って言った。
「撮らないの?」
蓮は目を細めた。
「今日は、まだ」
“まだ”が初めて未来を含んでいる気がした。
掴まれない距離が、少しだけ近づいた。
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## 14. 小さなクラス
ユナは小さなクラスを始めた。ゴルフ初心者向け。
でも“飛ばす”より先に“壊さない”を教える。
呼吸、姿勢、重心。
ピラティスで学んだことをゴルフの言葉に翻訳する。翻訳はユナの得意分野だった。
銀座で身につけた“相手の目線で話す”が、ここで初めて誇りになる。
初日、来たのは三人。
肩が上がっている人。
自分を責める癖がある人。
笑うとき、口だけが笑う人。
ユナは言葉を短くする。
「息、ここ」
「肩、落とす」
「目線、ボールの向こう」
霧の朝のハロルドの言葉と同じ。
言葉は短いほど体に届く。
帰り際、参加者の一人が言った。
「今日、初めて怖くなかった」
その“怖くない”が、ユナにとって最大の報酬だった。
上手くなる前に、続けられる。
それが仕事になる。
ユナは、自分の手を見た。
かつて誰かに掴まれた手首は、もう震えていない。
でも油断すると、また握りしめてしまう。
だから、教えるたびに自分もほどく。
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## 15. 砂糖の誘い
クラスが小さな評判になると、銀座から連絡が来た。
以前の常連の男だった。
「戻ってこない? こっちも待遇変えるよ。君の留学話、ウケる。客つくよ」
甘い。砂糖みたいに甘い。
安心。収入。今すぐの生活。
電話口で、ユナの手が震えた。
自分が弱いことを知っている。甘さに救われたい夜がある。
けれど思い出した。あの手首の痛み。笑顔の裏の冷え。
ユナは息を吸った。胸を開いた。肩を落とした。
霧の朝の呼吸。
ハロルドの言葉。
Loosen… but don’t drop.
「戻りません」
短く言った。言葉が震えないのが怖かった。
震えないのは強さじゃない。ほどけた証拠だ。
電話が切れたあと、涙が出た。
塩の涙だった。
でもその塩が、明日を腐らせるものではないと、ユナは知っていた。
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## 16. 線を引く
クラスの帰り、蓮がついてきた。歩幅を合わせるでもなく、置いていくでもなく。ちょうどよく。
カフェでユナはレモンソーダを頼んだ。泡が上がっていくのを見ると、NZの霧を思い出す。
「撮らない理由、やっぱり聞きたい」
ユナが言うと、蓮は少しだけ笑った。
「壊れそう?」
「うん。でも、壊れてもいい」
蓮はコーヒーを一口飲み、言った。
「昔、撮ってたんです。頑張ってる人を。夢の途中の人を」
指がカップの縁をなぞる。
「うまく編集して、いい話にして、受けた。再生も回った」
それから息を吐いた。
「でも、本人が壊れた。…僕のカメラが背中を押したのか、引っ張ったのか分からない」
ユナは黙って聞いた。
見られることで消える感覚を、自分も知っている。
蓮は続けた。
「それ以来、撮るのが怖い。でも、見ないのも違うと思ってる」
ユナは言った。
「蓮は、私を掴まなかったね」
蓮は目を瞬きして、少しだけ苦く笑った。
「掴んだら、君の飛び方が変わる気がした」
ユナは胸の奥が熱くなって、でも指先は冷えた。
掴まれたい夜があった。
同時に、掴まれたくない夜もあった。
「だから今日は撮らなかった?」
「違う」
蓮は首を振った。
「今日は、君の仕事の日だから」
その一言が、ユナの胸の奥の“硬いところ”に触れた。
尊重。
消費ではなく、立たせてもらう感覚。
ユナは笑った。
「私、線を引いたよ。銀座から戻れって言われたけど、断った」
蓮の目が少し揺れた。
「…それ、簡単じゃない」
「簡単じゃないよ。でも、呼吸したら言えた」
「呼吸」
蓮が繰り返す。
ユナは頷く。
「短い言葉の方が、体に届く。NZで教わった」
蓮はふっと笑った。
「僕も、短い言葉を覚えたい」
ユナが言う。
「もう覚えてる。…“今日は君の仕事の日”って」
蓮は視線を落として、少しだけ照れた。
その照れが、値札のない温度で、ユナは息がしやすかった。
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## 17. 余韻としての炭酸
春の終わり、別府から小包が届いた。手ぬぐいと、乾燥した柚子の皮。匂いが一瞬で部屋を変える。東京の空気に湯の町の温度が混ざる。
ユナは机にラベルライターを置き、透明テープを引き出した。
貼る場所はもう決まっていた。
独立準備のノートの表紙。
透明テープに黒い文字。
**SUGAR**
**SALT**
**HELP**
三つ並べて貼る。
砂糖だけだと続かない。塩だけだと笑えない。助けてと言えなければ、折れる。
夜、蓮から写真が届いた。
練習場の夕方。逆光でボールは見えない。芝の光だけがきれいだ。
「撮る日じゃないって言ってたけど、今日は撮った。君の成果じゃなくて、続け方を」
その文を読み、ユナは息を吐いた。胸が熱い。甘さとしょっぱさが同時に来て、泣き笑いになる。
窓の外の東京の空は狭い。
でも、霧の向こうの空を知っている。狭さは飛べない理由にならない。
ユナはグラスを持ち、レモンソーダを一口飲んだ。炭酸が喉を刺す。痛い。けれど気持ちいい。
生きている感じがする。
机の上のラベルライターは静かに光っていた。
透明テープの上の文字は、薄いのに消えない。
ユナはクラブを握る自分の手を思い出す。
強く握っていたころの痛み。
ほどいた瞬間の怖さ。
それでも落ちなかった感触。
夜、ユナはグリップを握った。
もう、痛くはなかった。
力を抜いても、クラブは落ちなかった。
人生も、同じだと分かる。
ほどいても、失わない。
ほどいたからこそ、自分の手で、選べる。
ユナは息を吸い、構えた。
――ほどけたグリップで。
窓の向こうで、東京の夜が光る。
銀座の眩しさとは違う、生活の光。
ユナはその光に背を向けず、ほどけた手で、明日の自分を握った。




