司寿玉子巻盛々六助
犬の身体の低い目線でまず目に入ったのは、赤いふんどし。情熱を体現したような鮮やかさの赤い布は、薄闇の中でもその姿を見失うことはない。肥過ぎず痩せすぎずな二本の腿がそこから地へと伸びている。
少し顔を上げると、腹部に墨で描かれた面白おかしいおたふく顔が、完全にイッちゃっている狂気の瞳で恐らくは天井を見上げている。福笑いがきちんと完成すればこういう風になるんだろう、と思えるような感じだ。
もうふんどしの時点でおよそ誰かはわかっているので、顔は確認せず、無視してさっさと奥に引っ込みたい気持ちだった。でも、通路を塞がれている以上はどうしようもない。
視線を上げると、相手と目が合った。そのまま問い掛ける。
「キュ、キュキュンキュン(お前、こんなところで何してんの)」
「プニ長様! ご無事でしたか!」
六助は肩で息をしている。どうやら、さっきすれ違ったやつに起こされて報告を聞いて、急いでこちらに駆けつけてくれたみたいだ。服くらいは着て来いよと思うけど、それだけ俺を心配してくれたのだろう。
明智が謀反を起こした、それを聞いた俺が一人で戦場へ向かって走っていった、なんて聞けば当然か。
俺が尻尾を振って肯定すると、六助は安堵の息を漏らした。
「すでに明智の兵が寺の中に紛れているやもしれません……不審な人物を見かけませんでしたか!?」
「キュキュンキュン(俺の目の前にいるけど)」
街中にいれば間違いなくお縄ものだろう。
不審者は、俺の言葉を聞いたか聞いていないのか、俺の隣まで歩み寄り、襖の隙間から外を覗いた。そして大きく眼を見開く。
「明智殿、真に謀反を……どうして」
六助は視線を外さないまま強く拳を握っている。
その胸中が複雑であることは明白だ。織田家に仇を成した以上、ただで済ますわけにはいかない。でも、明智は織田家中ではそこそこに慕われていて、六助もあいつのことを気に入っていた。
ややあって、六助は静かに、ゆっくりとこちらを向く。
「プニ長様は奥へお下がりください。今戦場にいる織田兵には、一対一で明智殿を止められるものはいません。私が時間を稼ぎますので、万が一の時には裏口からお逃げに……」
そこまで言いかけて何かに気付き、首をふるふると横に振った。
「いえ、明智殿のことですから、とっくに本能寺は隙間なく包囲されているでしょう。ここは増援が来るまで持ちこたえるしかありませんね」
早馬すら出せないこの状況下で増援は望めないし、それは六助もわかっているはずだ。家臣として、俺が人間であれば自害を薦めた状況だと思う。でも、それが出来ないから六助としてもああ言うしかない。
ただ単に諦めていないだけかもしれないが。
それに、この状況で戦場に赴いて「時間を稼ぐ」というのは、ほとんど死にに行くようなものだ。こいつは、俺を逃がすため、それが叶わなくとも少しでも長く生きてもらうため、自分の命を捨てる覚悟を一瞬で決めたに違いない。
再び外に視線をやれば、明智がまた織田兵を振り払い、「プニ長くぅ~ん! 出ておいで~! 来ないならこちらから行くよ~!」と叫んでいるところだった。
「それではプニ長様、ご武運を」
そう言って一礼をすると、六助は別れの挨拶を述べることもなく、こちらに振り返ることもなく、建物の出入り口へと歩いて行った。その背中に向かって俺が言えることは一つだけだ。
「キュ、キュキュンキュン(いや、ふんどし一丁のまま行くのかよ)」
悲愴な覚悟に溢れるその後ろ姿も、無駄に引き締まったお尻のせいで全てが台無しになっている。あいつ、本当に裸で戦場へ行きやがった。明智が持っていないから、というのもあるかもしれないけど、刀すら持っていない。
一体あれで何をしに行くつもりなのか、逆に興味が湧いてしまう。せっかく時間を稼いでくれようとしているあいつには悪いけど、少しだけ観戦していこう。
六助は建物を出ると、ゆっくりと、そしてしっかりとした足取りで明智の方へと向かって行く。一方で明智はまた織田兵を一人振り払い、建物へと更に一歩近づいたところで六助と遭遇する。
その瞬間、明智の表情が旧友と再会したかのごとく輝いた。
「やあ、六助君じゃないか! 無事でよかった! 一体どうしたんだい? とても格好が良くて、一瞬誰だかわからなかったよ!」
「明智殿、一つだけお聞きしたい」
「何だい!?」
六助の目は全く笑っていない。にも関わらず、明智はその笑顔を一切崩そうともしない。
怒りすら感じられる真剣な表情のふんどし男と、仲間を裏切っておきながら満面の笑みを浮かべる上半身裸の男。二つの狂気が正面からぶつかり合う。
「何故、プニ長様を裏切ったのですか?」
「裏切った? 何を言っているんだい?」
そこで初めて明智から笑顔が失われる。本当に何を言っているのかわからない、という目だ。
しかし、それも一瞬のこと。すぐに元に戻り、まるで演説をするかのように天に向かって両腕を広げながら答える。
「ぼくはプニ長様を救済して差し上げようというだけさ!」
「救済?」
「ああ! 理不尽で薄汚くて、倒しても倒しても次々に敵ばかりが沸いて出てくるこの悲しい世の中からね!」
たしかに、織田家はすぐに敵が出てくる。まず謀反が多い、つまり身内が突然敵になったりするし、そうでなくてもプニ長包囲網のように、織田家を倒そうと結託するものたちが続々と現れる。
出る杭は打たれる、というのは致し方ないことではあるし、戦ってなんぼのこの世の中だ。けど、ちと織田家には敵が多すぎる気がする。
明智はそれを憂いているのだろう。だから、俺を殺すことで辛いこの世から解放してあげようと。ヤンデレかよ。そもそも死にたいとか思ってないし余計なお世話以外の何物でもない。
六助もあいつの言葉を同じ様に受け止めたらしい。表情を変えず、静かに口を開いた。
「そうですか。何があったのかは存じませんが、話しても無駄なようですね」
「六助君の方こそ、どうして僕を止めようとするんだい? 君にはこのまま逃げて欲しいんだけど」
「どうして、ですか。決まっているでしょう」
そこで六助は左半身を前に出して両腕を上げて肩の力を抜き、脇を締める。何かの格闘技の構えのようにも見えるけど、武術の心得がない俺にはわからない。
「私が武士だからです」
その答えに、明智は宝物を見つけた子供のような表情をした。
「いいね~すごくいいよ! 何だかよくわからないけど、今の君は僕が見た中で一番かっこいい!」
「それはどうも」
「僕は六助君とは戦いたくない。けれど、そういうことなら一戦交えよう!」
そして、明智も六助と似たようなポーズを取り、戦闘態勢に入る。
どうでもいいけど、お前ら刀使えよ。何で戦場のど真ん中で、しかもお互い裸で素手の殴り合いをしようとしてるんだ。
さて、名残惜しくはあるけど、後は二人が殴り合う様を眺めるだけになるし、ここまででいいだろう。万が一にも六助が一瞬でやられたら、すぐに明智がここに来てしまう。それはあいつも望むところではないはずだ。
「キュ……キュンキュ、キュン(六助……今まで本当に、ありがとな)」
そうつぶやいて踵を返すと、俺は奥の部屋へと向かって駆けだした。




