少女の想い
「あぶないッ!!」
叫んだ声が、誰のものだったのか。
ユメコは気づくと空中に身を乗り出し、シンジの腕を掴んでいた。肌が粟立ち、凄まじい悪寒が全身を駆け抜ける。
まぎれもない浮遊感。胃がひっくり返りそうな感覚。
――落ちているのだ。
そう実感した一瞬後、凄まじい重みが両肩にかかる。
「ひぅっ!」
引きつるような自分の悲鳴に、視線を跳ね上げる。今まで立っていた通路の端に指がかかり、奈落への落下に対する刹那の猶予となっていた。
ふらりと揺れる足の下に、地面はない。
「……あ、あ……どうしよ……」
あまりの非現実感に、意識が霞む。
奇跡的に、シンジの腕を掴んだままだった。袖口のボタンかどこかが手がかりとなり、細く脆弱なユメコの腕でも相手を落とさずに済んだのである。
だが――超人でもないユメコには、その一瞬が精一杯だった。
ざりっという音ともに、指があっけなく離れた。
視界一杯に広がった、吸い込まれそうな京都の夜の光景。流れる光の筋、高速道路。薄明るい空に遠くシルエットなっているどこかの塔。
ユメコの脳裏に、クリスマスの夜に眺め渡した東京の夜景があざやかによみがえる。
ふたつのタワー、きらきらと輝くペンダント。そして視界いっぱいに占められた、愛おしい顔――信じられないくらいに整ったイケメン顔のくせに、鋭い目をしてイジワルばっかり。あたしをからかって笑ったり、一生懸命に怒っていたり、思いっきり心配していたり。
――泣いていたときも見ちゃったっけ……そう、あたしのために。
「……ショウ」
涙が、音もなく散った。きっと下まで一緒に落ちてゆくのだろう。
「ユメコ!」
鋭く呼ばれた声に打たれ、意識が浮上する。
現実が一気に押し寄せ、すべてがはっきりと見えた。
落ちては、いなかった。
「ショウ……なの?」
すぐ目の前にあった黒い瞳。星空のような都市の光を背景に、ぽかんと呆けたような自分の泣き顔が映っている。
その切れ長の目は、すぐに優しく微笑んだ。まるでこちらを励ますように。
「当たり前だぜ、ユメコ。俺様じゃなければ、誰だというんだ」
自信たっぷりな声も言葉も――相澤そのもの。本物だ。
「な……当たり前って……もぉ!」
ユメコの目に、新しい涙がにじむ。
「おっと。まだ安心するのは早いぜ、ユメコ」
その言葉に我に返って周囲を眺め渡し、自分たちの置かれている状況に気づく。
相澤はユメコの細い腰を抱き、その片腕でシンジの手までもを揺るぎなく掴んでいた。もう一方の腕は真っ直ぐに上へと伸ばされており、先ほどのユメコのように通路の端に引っかけられている。
空中に身を投げ出したまま、片手だけで三人分の体重を支えているのだ。
「し、ショウ……」
揺れる大きな瞳で見つめてくるユメコに、相澤はニヤリと微笑んで言った。
「いいかユメコ、よく聞くんだ。まずおまえを押し上げる。通路に戻って、そのまま待っていてくれ。俺はこの荷物を上へ戻す。俺を信じてそのまま――」
「情けは要らない。手を、放しなよ」
冷静な声が下から聞こえた。
見下ろすと、相澤の腕一本で支えられたシンジの体が揺れていた。遥か下には、奇妙なほどにくっきりと見えるアスファルトの道路。
その道路に、パトカーが何台も停まっている。周囲から、まだ多くの警察車両が集結しつつあるのだ。
サイレンが闇夜に響き、にわかに下が騒々しくなる。ビルの周囲は、明滅する赤の光であふれつつあった。
「警察を呼んだのか。無駄なことを」
シンジが下を見おろし、幾分か苦しそうに顔を歪めたまま吐き捨てた。
「この僕に行政の力は及ばないよ。警察なんか、無力さ。ビルに入ることも、下からではこの屋上まで到達することはできないだろうね」
「なるほどな。では、別ルートではどうかな」
面白がっているかのようなショウの声が自信たっぷりに、ユメコの傍から投げかけられた。
「そういえばショウ、ここまでどうやって来たの? 今までどこにいたの?」
相澤は何もない空中に腕一本だけでぶらさがったまま、抱いたユメコに自分の顔を寄せ、その唇に自らのそれを押し当てた。
言葉を切ったユメコに、安心させるような笑顔を見せる。
「その質問には、あとで答えてやるよ――おっと!」
相澤の手を振りほどこうとシンジがあがいたのだ。だが、相澤の体は微塵も揺るがない。
「おいおい。ここから下へ落ちるつもりか? 東雲神事」
「手を放せ、と言っている」
「聞けないね」
「では、このままでどうするつもりだ。おまえなんぞに救ってもらおうとは思わない。手を放せ」
「まさかあなた、飛べるの?」
思わずユメコは訊いた。
「まさか。僕の力は『繁栄』、なんの役にも立たない力さ。今じゃその力は、Eクラウドグループのために使われている。一族の繁栄のためにもね」
シンジが笑う。
「殺したと思ったのに、なぜかおまえが生きている。てことは、僕は死ぬこともできない体のままってことだ」
自嘲するように、シンジは口元を歪めた。
「下へ叩きつけられようとも、たとえバラバラになろうとも、僕は死ねない。元に戻されるだけだ」
「莫迦か、おまえは……!」
口上を続けていたシンジがビクリと口を閉ざすほどの低い声が、夜の闇を震わせた。
相澤だ。凄まじい怒りが、いまにも爆発しそうだ。
「過去にもそうやって命を投げ出したあんたの復活のために、なんの関係もなかった女性の血が奪われたんだ。命の価値がわかっているのか? 犠牲を当たり前だと思うなッ!」
「……ショウ」
他人のために心の底から怒っている。ユメコの胸に熱いものがこみあげた。そっと広い胸に寄り沿うと、相澤はゆっくりと息を吐いた。
「それに、今落ちたら下に迷惑がかかる」
怒りを静めたショウはそっけなく言葉を足し、ぶらさがっているほうの腕に力を籠めた。
「無理だ――三人とも落ちる」
相澤はシンジに不敵な笑みを見せ、足場の端にかけていた指と腕に力を籠めた。
腕一本で自分の体を引き上げると同時に、もう一方の腕に抱えていたユメコの体を持ち上げる。もちろん、掴んでいる腕とつながっているシンジの体も一緒に、だ。
「俺様を見くびるなよ」
「……あいかわらず、信じられない身体能力……すごいです」
「惚れ直したか?」
「なッ、……ずっと惚れてますから!」
カッと頬が熱くなり、思わず言い返してしまう。嬉しそうにニヤニヤと笑うショウの視線から自分の顔を隠すように、ユメコは目の前まできた通路に向き直った。自分の細い体を通路に移す。
相澤はシンジの体を横脇に抱えるようにして、自分も通路に無事戻った。
「そら、あんたは自分だけで上に行け。だがあとで聞きたいことがごまんとあるぞ。逃がさないぜ。覚悟しておけ」
そのままシンジの体を上へと放る。
ユメコが驚き、悲鳴を発するまでもなかった。
いつの間にか塀の上で待機していたマモルが、少年の体を危なげなく受け取ったのだ。
「さて、ユメコ。待たせたな」
相澤がゆっくりと視線を向け、呆気にとられたユメコが我に返る前に、その体を抱き寄せた。
――あたたかい。ユメコはようやく安堵した。長身と力強い腕に包まれて、もうなにも怖くなかった。
「……遅くなってすまなかった、ユメコ」
「もぉっ。死んじゃったかと……思っちゃったじゃないですか……」
「そんな簡単に俺様がやられると思っていたとは、それはそれでショックだな」
「ごめんなさい」
「許さない。家に帰ったら、たっぷり一晩かけてお仕置きだ」
その言葉に、ユメコの頬がカァッと熱くなる。熱くなってばっかりだ、と少々腹立たしくも思う。
「さんざん心配させたのに、ひどいです」
けれどその感覚は悪くない――だって、その原因が生きて、無事でいてくれたのだから。
「でもショウ、どうやってここまで来れたの?」
「それは、上を見てくれたら分かると思うぜ」
「……上?」
ユメコが空を振り仰ごうとしたとき、それに気づいた。
ヘリコプターのローターが回転する爆音。それにまぎれて聞こえた、自分へ向けられた呼び声に仰天する。




