黒い影
背の高い相澤と変わらぬほどの長身。黒い影は、相澤との距離を一歩踏み込んで詰めてきた。同時に拳を突き出してくる。
反射的に身をひねってかわした相澤は、膝を素早く相手に叩き込む。
相手は拳を下に突き出し、相澤の腿を押さえ受けようとしてきた。だが、相澤の蹴りは止まらなかった。
ガツッ!
鈍い音がして、相手の体が少し浮いた。続けて繰り出された相澤の拳が横っ腹に当たり、相手は床に転がった。
だが、すぐに身を起こし、片足を引いて構えた。
「その突きといい構えといい――空手だな」
相澤が言い、拳を改めて握り直した。ペンライトは部屋の奥に転がってしまったが、こちらに向けられた弱い光に照らされた相手の姿は、闇の中で浮かび上がるように見て取れた。
男だった。相澤と同じくらいの背格好だ。黒いスーツは、動きを妨げず光沢もあることから、おそらく上質なブランド物だろう。首に巻いているバンダナも黒で、それを顔の半ばまで引っ張り上げて覆面にしていた。
髪の色は黒ではなかった。ユメコを思い出させる淡い茶色――。
相手が仕掛けてきた。前に出していた足を進め、間合いを詰めると同時に拳を突き出す。が――。
「ケンカで俺様が負けるかよ!」
相澤は素早く踏み込むと同時に体を沈め、足を真っ直ぐに蹴り出した。下腹を強かに蹴られた相手は、よろめくように数歩下がった。
相手は有段者だか何だかしらないが、ケンカの場数ではおそらく相澤のほうが上だろう。ケンカに弱くては探偵は務まらない――相澤のモットーである。
正式に何か武道を習ったわけではない、我流だが、どんな相手にも負ける気がしないくらいに鍛えたつもりだ。
「――やはり、使うか」
男の低く押し殺したような声が耳に届き……次の瞬間、相澤は目を見開いた。気がつくと、腹に相手の拳がめり込んでいたのだ。
「グッ!?」
相手の動きがおかしい。動いたようには――見えなかった。
相澤は腕にはめた時計に目を走らせた。目を上げ、相手を睨む。相対する者に対して、相澤は並ならぬ観察眼があるので、相手の思惑が読めるのだ。次の動きが予想できる――はずだったのだが。
「う……ッ」
まただ! 今度は横から回し蹴りを食らったらしく、相澤は床に倒れた。
――だが、わかったことがひとつ、あった。
「これは、厄介だな」
相澤はつぶやき、一瞬、悩んだ。だが、次の瞬間行動に出た。
おそらく、男の視界の隅に白い影が映ったはずだ。
男がそちらに気を取られた隙に、相澤は素早く身をかがめ、男の視界から外れた。次の瞬間、伸び上がるようにして顎を殴りつけ、相手がひるんだ隙に廊下に出る。
「2秒、か」
つぶやき、相澤は全力で駆けた。霊安室の廊下から出る自動扉を蹴り開けるようにして通り抜ける。
「逃げられるくらいならばッ」
怒声に振り返った相澤だったが、速度を緩めることはなかった。一気にエレベーターホールまで移動する。
背後では、扉から出てきた男がサイレンサー付きの拳銃を構えたところだった。だが、撃ったときにはすでに相澤の体は扉の向こう。弾けたのは扉の表面だった。
「姿が見えなければ……!」
悔しそうに言い放った男は、銃を斜めに構えたまま走った。扉を開けたときには、すでに相澤は閉まりかけたエレベーターの中だった。
「ふぅ、助かったぜ」
相澤はエレベーターの中で独りつぶやいた。久しぶりに冷や汗をかいた気がする。
「――ユメコを連れてこなくて正解だったな」
おそらく、あの男は、相澤と同じように『力』を持つ者だと思われた。
古くから受け継がれてきた不可思議な力――。
その強さに係わらず、今もなお受け継がれ続けている家系が、まだこの国にもいくつか存在している。相澤家は、もともと京の都の古い家系だった。父、相澤一志の代になってから、都内に移ったのだが……。
「それよりも、あの力――2秒とはいえ、相手の意識を奪うことができるのか。時を止めていると表現したほうがいいのか。厄介な力だ」
相手の動きが、まるで時間を飛び越えて移動してきたように思えた相澤は、腕の時計を見た。瞬時に秒数を見て取り、頭の中で秒数をカウントしていたのだ。きっかり2秒のラグ――時計と自分の感覚とのずれがあるのに気づいたのである。
他の可能性も考えてみたが、おそらく間違いないだろう。ケンカでは絶対に勝つ自信があったのと、どんなに素早く動いても、瞬間的に移動するなんてありえないという理由から導き出した結論でもある。
ポーン、ガッコン……。
音が鳴り、エレベーターは一階で開いたが、相澤はそのまま六階のボタンを押した。他の人間も乗り込んでくる。相澤は乱れていた呼吸を静め、何食わぬ表情で立っていた。だが、ポケットの中の携帯端末を探ったとき、僅かに表情が動く。
「しまった、落としたか……」
おそらく、地下の霊安室だろう。取りに戻るわけにもいかない。
「思わぬ失態だな」
相澤は額に手を当て、目を伏せた。
ユメコは、そぉっと扉を開いた。
地下の廊下である。しん、という音が聞こえてきそうなほどに静まり返ったなかを、できるだけ足音を立てないように歩こうとして――サンダルの革の編みこみ部分が軋み、踵の部分がどうしてもカツ、と鳴ってしまうのに気付いた。
しばらく迷ったが、結局左右とも脱いで左手に揃えて持ち、裸足で歩きはじめる。
――うぅ……ショウに見られたら、怒られちゃうかな?
多分、ショウなら困ったように苦笑して、大義名分ができた、って顔で抱っこして、降ろしてくれないかもしれないなぁ。
ユメコはそんなことを考えながら口元を緩めて、いつの間にか怖かった剖検室の前を抜け、霊安室の廊下へと続く扉の前までたどり着いていた。
「誰も、いないよね」
ショウは、中にいるのだろうか。結局ついてきたと知れば、今度こそ怒られるかもしれない。
「でも……この胸騒ぎ……」
ユメコはワンピースの胸の布を掴んだ。自分自身にひとつ頷き、扉を開く。
霊安室前の廊下は、不気味なほどにひんやりとしていた。
――ひぃっ。か、帰ろうかな……。
決心が鈍ったとき、目の前にほんわりした光が見えた。
「え?」
白い光ではない。きれいな、可愛らしい色だった。何故か、あの目覚まし時計――もらったばかりの鮮やかなピンク色を思い出した。その光はゆっくりと形を作った。
「うさぎ……?」
シルエットのように薄っぺらい影だったが、それは間違いなくうさぎだった。跳ねるようにして、一番手前の霊安室のドアを突き抜け、中に入っていく。
「せ、先輩……なの?」
思わず口にしたユメコ自身が驚き、唇に手を当てた。ごくりと喉を鳴らすと、意を決してそのドアを開き、中に入った。




