素直な、お願い
「怖がっているなら、このノートを片づけたりしなかったんですか?」
「したわ、もちろん。でも、どこに片づけても隠しても、次の日にはこの位置に戻っているのよ」
ユメコはノートを凝視した。
「ペンも一緒に?」
「そう、ペンも一緒に。それで書いているみたいなんだけど、実際に書いている瞬間を、誰も見ていないのよね。授業が終わった後、文章は確かに増えているのに」
相澤はノートをめくっていた動きを止め、手を一度遠ざけた。そして、おもむろにノートの上に両手のひらをかざした。
――出てくる、のかな。霊の正体。
固唾を呑んで見つめるユメコだったが、何も出ては来なかった。
鈴菜は、何をやっているのかさっぱりわからない、という顔つきでその光景を眺めている。
相澤は息を吐き、手を引っ込めた。
「どうだったの、ショウ。やっぱり霊の仕業だった……?」
「いや……霊というのか……通常の霊とは思えないな。だが生身の人間の悪戯ではないようだ」
相澤は眉をひそめ、机の上のノートとペンを見つめた。
「どうしましょう。このまま学生を怖がらせたままにするわけにもいかないし、この教室を使わないわけにもいかなくて」
困ったように鈴菜が相澤に訊いてきた。
「とりあえず、このまま調べてみます。できる限り早く対処しますから――」
「ショウ、増えてる!」
相澤の言葉を、ユメコの声が遮った。
「書かれた文字が、増えているの、さっきまでなかったのに」
ユメコの視線の先、ノートには、新しい文章が増えていた。
ペンの位置は、僅かだが、先ほどの位置よりずれていた。
「『僕のことを知りたいのかい?』」
相澤が読み上げた言葉に、ユメコと鈴菜は動きを止めた。
――部屋の温度が、下がったみたいだ。今は、外気温も低いのに……。
ユメコは歯が鳴りそうになるのをぐっとこらえた。
「ああ、知りたい。あんたがノートに綴っている言葉の、意味と理由を」
相澤はいつもの声の調子で言った。
そして、ノートとペンを見つめた。
「……動かないな」
「やっぱり見ていると動かせないのかな……?」
ユメコがおずおずと言った。
「視線を一瞬、外してみる?」
鈴菜の提案に、せーの、で三人は後ろを向き、また机に向き直った。
傍から見ると奇妙な光景であるが、本人たちは真剣だ。
「――あ、やっぱり増えてる」
ユメコが声をあげた。そして小首を傾げる。
「もしかして、照れ屋さんなのかな?」
「だるまさんがころんだ、みたいね」
堪え切れなかった鈴菜が、うくく……、と笑いながら言った。
あきれたような視線をふたりの女性に向けた後、相澤はノートを覗き込んだ。
「『理由は話せない、僕にだってわからないんだ』」
「一瞬で書いたの?」
ユメコが目を丸くして新たに増えた文章を凝視していた。
「理由が話せない、わからない?」
相澤がつぶやくように言い、何かを考え込むように動きを止めた。
「もしかして、怖がられるのがイヤだから書いてあるところを見られたくない?」
ユメコの問いかけに、また文字が増えていた。自分の思考に集中し、黙り込んでしまった相澤の代わりにユメコが読み上げた。
「『そのとおり』」
――このやりとり、ちょっと楽しいかも。
害のある霊なのかどうかはわからないが、今のところそんな風には思えなかった。
「不思議なことって、世の中にあるものなのねぇ……」
鈴菜が感心したような口ぶりでそう言った。
そのとき、教室のドアが開いて、ユメコは「ひゃっ」と驚いた。
「琴峰先生、ちょっと質問あるんですが――お邪魔でしたか?」
ここの学生だろう、顔を覗かせて鈴菜に声をかけた。
「はいはい、すぐ行くわ~」
鈴菜は気さくな口調で返事をして、相澤とユメコに言った。
「私はゼミに顔を出してくるので、これで失礼しますね。あとは自由に調べて、何かあったら声をかけてね」
「はい」
ユメコの返事を聞き、鈴菜は部屋をあとにした。
「このノートの筆記が始まったのは、先月の中旬頃だと言っていたな」
相澤はノートをぱらぱらとめくった。最初のページからずっと、その日の授業での出来事や感想が綴られている。
「とりとめもない言葉ばかりだが、ひとつわかるのは――これを書いている者が授業のときの話を心から愉しんでいる、ということだ」
「ねぇ、ショウ。――訊いてみたら?」
ユメコの言葉に、相澤は軽く目を見張った。
「どういう意味だ?」
「いつもの霊と違って、受け答えできそうなんだもの。本人さんに分かる範囲でもいいから聞き出せないかな」
「――訊いてみよう」
相澤がノートの最後のページを開いて机に戻し、ペンを置いた。
「質問に答えてくれ。あんたは何者で、今どういう状態なんだ?」
見つめていても、ペンはピクリとも動かなかった。ユメコが身を乗り出した。
「えっと、あたしたちは心霊について調べたりする専門なんです。だから、怖がったりしません。今までにも霊と会ったことあるし――」
ユメコはノートとペンを見つめながら、真剣に言葉を紡いだ。そして、両手を顔の前で合わせて、
「お願い、します。目の前でも気にせず、書いてお話していただけませんか?」
そう言って頭を少し下げた。少し上目遣いになって、ノートとペンを切なげな瞳で見つめる。
ユメコが意図してやっているのかわからないが、お願いというかおねだりというか、傍らで見ていても非常に心が揺れてしまう少女の行動だった。
たぶん、本人は必死でやっているだけなのだろうが……。
「うぅっ」
相澤は、ユメコにこんな「お願い」をされたことはない。思わず嫉妬してしまう相澤だった。
ペンがおすおずと、宙に浮いた。
「書くのか」
目を見開いた相澤がぶっきらぼうに言うと、ペンはパタッと机に戻った。
「ショウ」
ユメコが相澤の腕に手をかけて、目を合わせてきた。相澤は両手を挙げて二歩ほど下がり、そこにあった椅子にどっかりと座った。
「お願い、します」
ユメコの言葉に、再びペンが持ち上がる。ノートの上に滑るように移動した。
『それで、何を聞きたいんだい?』
「あなたは、誰ですか?」
『わからない』
「死んで霊になったの?」
『わからない』
ペンは、一文字一文字を綴っているわけではなかった。ノートにつくかつかないかぎりぎりの空中を、すぅっと滑るように移動し、文字が浮き上がってくるのである。
「自分がどんな状態だかわからない、ということ?」
『そう』
ユメコの質問の仕方では、延々と時間がかかりそうだ……と、そのやりとりを見つめながら相澤は思った。




