姿なき、書き手
「『ゴーストライター』という言葉の本来の意味は、本人が語ったことを文章にすることを仕事としている者のことや、書かれた文章を加筆したり書き直したりする者のことだ」
相澤は廊下を進みながら説明した。
「芸能人が書いたものそのままでは、とてもじゃないが出版できる文章や構成ではなかったりするから。あと、自分で書くことが困難な場合も、口述したものを筆記したりすることもある」
「今回は、そのものズバリの意味ってことなのよね?」
相澤が頷く。
「そうだ。霊が筆記している」
ユメコはごくりと喉を鳴らした。
相澤と一緒に過ごすようになってから、様々な霊と遭遇しているが、だからといって慣れるものではない。
「霊が他の人間に憑依して、文字を書かせたりする自動書記とはまた違うようだから、ぴったりの言葉が他になくてな……この霊はかなり特殊だ」
首を傾げるユメコに、相澤はニヤリと笑った。
「まあ、実際に見てみれば分かるさ」
廊下に並ぶドアのひとつの前で立ち止まり、軽く叩いた。
ユメコがドアの上を見ると、『琴峰鈴菜』というプレートが掛けられていた。
中から返事が聞こえたので、相澤はドアを開いた。
壁いっぱいに本棚が詰めこまれた、ごちゃっとした印象の部屋だった。
机の上にも、プリントや資料、ファイルが山積みである。
「法学政治学の風雲児くんの、もうひとりね」
その机の前に立ち、にっこり笑って相澤を迎えたのは、かなり美人の女性だった。
艶やかな黒い髪を後ろでまとめ、背中に流している。
「その呼び名はやめていただきたい」
相澤が顔に手を当てて言った。そして、ハッとなって言葉を足す。
「あ、いや。本人が聞いたら嘆きますので」
風雲児、とは、おそらく郷田翔平――ショウのことだろう。
ユメコは苦手なひとに会ったかのような相澤の顔を見て、目の前の准教授の女性を見た。
戸惑ったように視線を往復させるユメコに気づき、「あら、そうね」と女性は声をあげた。
「びっくりさせてごめんね。私が琴峰鈴菜よ。発達心理学の准教授をしています」
背筋を伸ばして名乗り、次いで、うくく……と笑い出した。
「相澤くんとよく似た子がいてね、学部の暴れん坊だったのよ。ふたりは双子みたいによく似た顔で、仲も良くて、学内でも有名だったの。どっちも格好良かったし、真っ直ぐで、良い子だったんだけどね……今年の夏のはじめに、片方が亡くなってしまってね」
語る言葉の最後のほうは、遠い目で悲しそうな表情になっていた。
――翔平と翔太のことだ。
ユメコには事情が呑みこめた。
――でも、まさか、ここに立っている中身は、亡くなったほうの郷田翔平です、とは言えないよね……。
なんとも複雑な表情になってしまうユメコだった。
一度殺されてしまった郷田翔平の魂が、同じように殺されてしまった相澤翔太の体に入って復活し、今ユメコの隣に立っているのである。
「俺のところの教授と友人だから、情報が筒抜けだな」
相澤がため息とともに言葉を吐いた。
「あら、何もあなたの悪口は聞いていないわよ」
鈴菜は、首を傾げて言葉を続けた。
「翔平くんと違って、相澤翔太くんは優等生でおとなしくて物静かで、落ち着いていて模範的な学生ですとしか聞いていないけど?」
そこまで言って、目の前に立つ相澤をじぃっと見つめた。
「そうねぇ、何だか聞いていた印象とかなり違う感じはするけど。どちらかというと、翔平くんのような――」
「探偵としての依頼を受けて来たのですが」
相澤は仕事の話に切り替えようとした。
「あら、そうだったわね」
鈴菜は事も無げに頷いた。切り替えが早い性格のようだ。
「そちらの子は、探偵の助手さん? 可愛らしい、高校生のようね」
「はい。黒川夢子といいます」
ユメコは一礼して名乗った。
「なら、話をしても大丈夫ね。どうぞご一緒に――こちらよ」
鈴菜はふたりの側を通り抜けてドアを開け、廊下に出た。
向かった先は、教室のひとつだった。
高校にもあるような広さの教室で、長細いテーブルと椅子が並べられている。
「あたし、大学って階段みたいな講義室で勉強するのかと思っていました」
ユメコの言葉に、相澤が応えた。
「そういう教室もあるぞ。あとで案内しようか」
「あなたは、もしかしてここの大学を受けるの?」
鈴菜の問いに、「は、はい!」と思わず背筋を伸ばしてユメコが返事をした。
「入れたらいいな、と思っています」
照れたように言葉を続けるユメコに、鈴菜は、ずずいっと詰め寄った。
「それでは駄目よ。入れたら、じゃないの、何が何でも入ってやる! ってくらいの気合いで来なさいね」
「は、はいっ」
気圧されたユメコが仰け反りつつ返事をする。
「うん、頑張れよ、未来の学生!」
鈴菜はにっこり笑って姿勢を戻し、最後列の奥の席にすたすたと歩いて向かった。
そして、その席に置いてあるノートを指差した。一緒に、どこにでもあるようなボールペンが添えられている。
「もしかして、それが? そのぅ、霊が書いたという……?」
「そう、これよ」
鈴菜が頷いた。
相澤はその席に近づき、覗き込んだ。
B罫の糸綴じタイプの、どこにでもあるようなノートである。
そこに、文字が書かれていた。弱々しいかすれたような文字だが、きちんと読める。
相澤は前のページをめくり、そこに書かれていた文章を読み上げた。
「――『ナラティヴ理論は興味深かったです』、『言語というものが思考を表現するために習得される人間独自のものだとは……』、あと、『オムライスの失敗談は面白かった』」
聞いていたユメコが思わず「え?」と身を乗り出した。
「ああ、それは――私が講義中にちょっと自分の話をしたときのことで」
慌てたように鈴菜が両手を振って言った。
「つまり、ここに書かれているのは、あなたの授業に対する感想ということですか」
「そうみたいなの」
「授業に出ている、誰かの悪戯という可能性は?」
うーん、と鈴菜は唸り、首を横に振った。
「それが、誰もそんなメモは書いていないっていうの。嘘をついている学生はいなさそうだし……結局みんな、怖がってその席には近づかなくなってしまったのよ」
鈴菜は、お手上げ、といわんばかりに両腕を広げてみせた。




