突然の連絡
「ユメコから話は聞いているよ」
夕食の席で、黒川泰三は、そう話を切り出した。
ユメコの父親である。
職業は教師で、母親の律子も教師だという。
ユメコの両親とともに、相澤たち四人は都心から少し車を走らせ、とある温泉にやってきたのだ。
それは、昨日のことだった。
「……うあ……どうしよ……」
ソファーに座っていたユメコが、通話が終わった携帯電話を取り落としていた。
リビングのテーブルには参考書やノートが置かれ、筆記用具がいくつかペンケースから出ている。
カチャッと音がして、リビングの扉が開かれた。
「電話、終わったのか」
分厚い本を数冊手にした相澤が入ってきた。
「書斎から過去問の本をいくつか持ってきたぞ。志望大学が変わったから、イチから調べないとだろう。傾向を知るには……どうした、ユメコ?」
硬直したように頬を引きつらせているユメコを見て、相澤は怪訝そうに首を捻った。
ソファーの上に落ちていた携帯電話を拾い、テーブルに置く。
反応がないので、相澤はユメコの横に座り、心ここにあらずという状態の少女の顔を覗き込んだ。
「ユメコ?」
耳に唇を寄せ、もう一度「ユメコ」と名前を呼ぶと、ようやく顔を上げて相澤のほうに勢いよく向き直った。
「――ショウ、どうしようっ」
振り向いたユメコは、勢い余って相澤の胸にぶつかった。
相澤は少女の体を受け止め、何事かと次の言葉を待った。
「どうしよう、あたしの両親が、明日の金曜にこっちに出て来るって」
「なんだ、そんなことか。世界がひっくり返ると言い出すかと思ったぞ」
相澤は笑った。
「笑い事じゃありません! ――だって、どうするんですか!」
ユメコは真面目な顔で相澤に詰め寄った。
「あたし、ショウの家で一緒に暮らしてること、お父さんとお母さんに言っていなかったんです。なんだか言いにくくて、つい言いそびれてしまっていて……。今の電話で、勉強を教えていただいているって、いちおうは説明したんですけど――」
「ああ、なるほど」
相澤は、ユメコの狼狽ぶりに納得がいった。
「問題ないさ。いいんじゃないか? これはチャンスだろう」
「チャンス?」
思いもかけない言葉に、ユメコは目をぱちぱちさせた。
「俺とユメコの関係を知ってもらう――イテッ!」
「どういう関係ですかッ」
「男と女の――イテテッ」
肩をポカポカ叩かれて大げさに痛がってみせる相澤に、ユメコは顔を赤く染めたまま言った。
「……まだ何にもないじゃないですか」
「まだ、な」
意味ありげに相澤はニヤリと笑い、ユメコを抱き上げた。
少し熱くなっている額に軽くキスをして、ソファーにそっと降ろす。
「ともかく、今は勉学に励む時間だぞ」
「はい、先生」
ふたりは冗談めかしたやりとりをしたあと、真面目な顔になって勉強に戻り……再びユメコが顔を上げた。
「――いや、ですから、両親が来る問題はどうするんですかっ?」
分厚い問題集をめくっていた相澤は手を止め、顔を上げた。
「事情を説明すれば――ああ、それは却下か」
真実は言えないな、と相澤がつぶやいて頷く。
相澤家の騒動で命を狙われたから、危険なので一緒に住んでいました……とは言えないだろう。もっとも、その状況は1ヶ月前までのことであって、もう危険はないのだが――。
ふたりは今も変わらず、毎日を一緒に過ごしていた。
「今の気持ちを素直に言えばいいだろうと、俺は考えている」
「素直な……気持ち?」
小首を傾げるユメコに、相澤は目を細めて微笑んだ。
「そうだ――真面目に将来を考えているから、ともに過ごしている、と」
「それに、ショウは私にずっと勉強を教えてくれているし」
ユメコの笑顔を相澤は嬉しそうに見つめ、すべらかな頬に指を走らせた。
「それに、俺様の女だからな」
「……最後の台詞は、両親の前ではゼッタイに言わないでくださいね」
勤めている学校が、創立六十周年ということで、珍しく休みがもらえたのだという。
そこで、都心の学生アパートでひとり暮らしをしているユメコに、久しぶりに会いにくる、と電話があったのだが――。
いろいろ状況も変わっているようだし、せっかくだから、と土日を利用して温泉に、ということで話が持ち上がっていた。
受験生だから、と反対しようとしたユメコは、結局言い負かされてしまって両親主催の温泉ツアーに同行させられたのである。
いわく、
「受験で頑張る合間の休息は必要だ。そして、大事な話があるだろう。ふたりの将来についてきちんと相談しておかないとな」
ということだったが、たぶん、メインの目的は後者なのだろう。
「なんだかとても不安なんですけど」
相澤の運転する国産高級車の助手席に乗り、ユメコがつぶやくように言った。
例の騒動で壊れた車の代わりに購入した新車である。
相澤は、車や家電に関しては海外メーカーよりも国産のものを選ぶ。
修理や部品が手に入りやすく、車幅も仕様も日本の道に合っているかららしい。
そのおかげで、両親にとっては何故か少し好印象にはなっていたが……。
後部座席の父の横顔をちらりと見て、ユメコは緊張しっぱなしである。
双方が教師ということもあり、かなり厳しく礼儀正しく、勉強に関しても妥協なく育てられてきたユメコである。
両親のことは大好きだが、今のような厳しい表情をされているときには苦手以外の何ものでもなかった。
ユメコが学校から帰るのを待って出発したので、宿泊先の温泉に着いたときにはすでに太陽が沈んだあとだった。
夕食の席で、改めてお互いの名前からはじまった。
「相澤、翔太です。東都学園大学の院生で、探偵事務所もやっています」
相澤はそう名乗った。
自分の本来の体は死んでしまったので、この名前を名乗るしかないのだが……聞いているユメコにとっても胸にちくりと何かが刺さるような感触がする。
「ショウさんです。呼ぶときはいつもこの名前で呼んでいます」
ユメコがそう言い添える。
「俺はユメコさんと真剣にお付き合いをさせていただいています」
「感じの良さそうなかたね」
母親は傍らの夫にそう言って微笑んで、相澤にも優しそうな笑顔を向けた。
「宜しくね、ショウさん。ユメコの父の泰三と、母の律子です」
父親はムッスリと黙っていたが、母親はとても愉しそうだ。
「とてもきれいなお顔で、格好よくて、礼儀正しくて、男らしくて。素適なかたで幸せね、ユメコ」
「ありがとうございます、お母さん」
律子に笑顔を向けられ、相澤も極上の笑みを返している。
「お母さんたら、もう!」
ユメコは気が気ではなかった。父親の機嫌が究極に悪そうだからだ。
「それで――君は娘と何かあったのかね?」
「お父さんっ?」
「あなた?」
口を開いた父の言葉に、ユメコが弾かれたように顔を上げて父を凝視し、母親も眉を跳ね上げた。
しかし、言葉を向けられた当の相澤は表情ひとつ変えず、静かに「いいえ」と応えていた。
「ユメコさんは、俺にとって大切なひとです。いまは受験を控えた大事な時期ですし、たとえそうでなくても結婚まで待ちます」
泰三の探るような視線を真っ向から受けとめる。
しばらくどちらも目を逸らさなかったが、やがて泰三のほうが口を開いた。
「そうか、安心したよ。試すようなことを言って悪かったね。すまなかったな、ショウくん」
ようやく、目もとを下げて笑顔をみせる。
「私は教師という職業柄、どうしても相手の真意を確かめておきたくなってね」
「わかります。気にしていませんから」
お気持ちお察しします、と言葉を続け、相澤は頭を下げた。




