第5話「黒の救済」
地下は、音が少なかった。
天井の配管を流れる水の気配。
遠くで低く唸る発電機の振動。
そして、時折――心臓の鼓動のように脈打つ、黒い光。
担架が運び込まれる。
そこに横たわっていたのは、街で暴れた“完全怪人”――そう発表された少年だった。
実際は、違う。
彼はまだ少年の形を保っている。
だがその身体は、裂けるような痛みと熱に侵され、血に濡れていた。
「失血がひどい。内臓にも損傷。因子は……まだ暴れてる」
白衣の者が淡々と告げる。
担架の横で、黒い影が立っていた。
顔の輪郭は闇に溶け、声だけがはっきりと響く。
「生かせ」
短い命令だった。
だが、そこには冷酷な命令の響きがない。
医療班が一瞬、目を交わす。
「……因子が不安定です。抑制を強めれば、人格が――」
「壊すな」
影が遮った。
「彼は“処分対象”ではない」
白衣の者が息を呑む。
「……了解」
処置が始まる。
止血。輸血。抑制波。
だが、機械のランプが異常を示した。
黒い輪――。
少年の胸元で、何かが淡く脈打ったのだ。
周囲の照明が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「……反応値が跳ねた」
医療班が呟く。
影は少年の顔を覗き込む。
まるで、確認するように。
「正義に捨てられた命は、ここで息をする」
その言葉は、救済の宣言だった。
同じ夜。地上の“秩序”は、別の形で動いていた。
ヒーロー局本部。
会議室の空気は乾いている。
スクリーンには大きく表示されていた。
【ルミナシティ緊急事案:対象排除完了】
「――よろしい。声明文はこれで統一する」
局幹部が言う。
「対象は完全怪人。排除。市民への被害はなし。
ヒーローの迅速な判断により混乱は収束」
別の幹部が資料をめくる。
「現場ログに“微弱反応”が残っています。
セラの索敵とレイの計測記録にも……」
「破棄しろ」
即答だった。
「“逃走した可能性”など残すな。
市民は安心を欲しがる。
ヒーローが怪人を逃した――それは信頼を破壊する」
誰も反論しない。
反論できる空気ではなかった。
「更生施設の職員が“黒い靄”の話をしています」
若い職員が控えめに言った。
「証言は封じる。
施設側に“責任”を負わせろ。
局に火の粉が飛ぶのを避ける」
幹部は指を組み、淡々と続ける。
「秩序が崩れれば、守れるものも守れない。
市民の信頼は、命より重い」
その言葉が、会議室の天井に張り付く。
――命より重い。
基地の廊下を、ミナトは歩いていた。
足音が自分のものだと分かるのに、遠い。
胸の奥で、何かが熱く、痛い。
扉の前に立つ。
会議室。幹部たちが集まる場所。
ミナトは、ノックもせずに扉を開けた。
ざわめき。
視線が一斉に刺さる。
「……失礼します。」
ミナトの声は静かだった。
「現場の報告に一部誤りがあります。
対象は排除されたとの発表がありましたが……完全覚醒しておらず、生存の可能性があります。」
幹部の一人が眉をひそめた。
「ミナト。君は現場判断を疑うのか?」
「疑う。
真実が違うなら、正義は嘘になる」
空気が凍る。
「嘘ではない。必要な“選別”だ」
別の幹部が言った。
「市民が混乱しないための、秩序維持の判断だ」
ミナトは一歩進む。
「秩序のために、命を選別するのか?」
幹部の目が冷たくなる。
「君は正義の側だ。疑う側ではない。
我々は市民を守るために、最善を尽くしている」
「最善?」
ミナトは低く笑いそうになった。
笑えない。
「最善を尽くして、救えない命が出るなら、
その正義は……誰のためにある?」
幹部が静かに告げる。
「“みんな”のためだ」
その言葉に、ミナトの瞳が僅かに揺れた。
胸の奥にわだかまっていた思いが、脳裏をかすめた
“みんな”とは誰だ?
幹部は続ける。
「選ばれなかった者に、救済の優先権はない」
ミナトの呼吸が止まる。
言葉が身体に刺さり、背骨まで冷える。
「……今、何と言った」
「危険因子は排除する。
それが市民の安心につながる。
君もそれを理解しているはずだ」
ミナトの拳が震える。
怒りではない。
痛みだ。
“正義”の内側が、腐っている痛み。
「……理解した」
ミナトは静かに言った。
「理解したよ。
この場所は……救う場所じゃない」
幹部が声を荒げる。
「ミナト! 感情で秩序を乱すな!」
ミナトは振り返らず、扉を閉めた。
背後で、会議室のざわめきが続く。
だがその音は、もう届かなかった。
基地の食堂には、灯りがあった。
湯気が立つ。
日常がある。
カイトたち四人は、そこにいた。
「ミナト!」
カイトが立ち上がる。
「今、局と揉めたって聞いた。
……何を言われた?」
ミナトは一瞬だけ迷った。
言えば、仲間が壊れる。
言わねば、自分が壊れる。
「……命より、信頼が重いそうだ」
ゴウが顔を歪める。
「ふざけんな……!」
セラが眉を寄せる。
「でも……局の言い分も分かる。
市民の恐怖は連鎖する。
混乱が起きれば、もっと多くの命が……」
その言葉に、ミナトの視線がセラへ向く。
責める目ではない。
ただ、静かに沈む目。
レイが低く言った。
「今は……秩序を守るべき局面だ。
俺たちが揺れたら、街が揺れる」
ゴウが拳を握る。
「でもよ……!
救える可能性があるなら、探すべきだろ!」
カイトは苦しそうに息を吐いた。
「……救う。
だが、勝手には動けない。
局の指示なく動けば、ブレイヴフォースそのものが崩れる」
その言葉は、正しい。
だからこそ、ミナトは分かってしまう。
仲間は悪くない。
当たり前の言葉であり、世界を守るための当然の判断だ。
それでも――。
(結局、同じだ)
制度の中にいる限り、
救えない命は“仕方ない”になる。
「……お前たちは、正しいよ……」
ミナトが言う。
セラが息を呑む。
「ミナト……?」
「正しいよ。
正しいから……苦しい」
カイトが一歩近づく。
「ミナト。
俺たちは一緒に戦ってきた。
正義を信じて……」
ミナトはカイトを見た。
その瞳の奥に、嘘はない。
光がある。
(だからこそ…)
「正義を信じてるから、救えない命を見捨てられるのか?」
カイトは答えられない。
沈黙が落ちる。
ミナトは椅子を引き、席を外した。
「……少し一人にさせてくれ。」
ゴウが立ち上がり、かけよる。
「待てよ!」
だがミナトは首を振る。
「大丈夫だ。
……気持ちを整理したいだけだ。」
その言葉は、仲間を傷つけるためではなく、
自分を守るための言葉だった。
地下。
少年の意識が、薄く浮かぶ。
耳元で、声がした。
「……聞こえるか」
少年はうわ言のように呟く。
「……ミ……ナ……ト……さん……」
黒い輪が、淡く光る。
室内のランプが一瞬だけ揺れた。
医療班がざわつく。
「反応が……上がった」
影が少年の額に手をかざす。
「目覚めろ。
正義が選ばなかった力よ」
少年の指が、僅かに動く。
だが目は開かない。
苦しそうに、息を吐く。
「……助けて……って……言ったのに……」
その言葉は、祈りだった。
影は静かに言う。
「ここでは、捨てない」
そして、淡々と告げた。
「君は“道具”ではない。
君は“証明”だ」
少年の胸元の黒い輪が、もう一度脈打った。
夜。ミナトは基地の外へ出た。
街の灯りが遠い。
人々は眠っている。
安心の中で。
その安心が、誰かの命の上に乗っていることを、知らずに。
ミナトは路地に入った。
空気が急に冷える。
ポケットの中で、黒い輪の欠片が熱を帯びた。
まるで、呼吸をするように。
「……来い、ってことか」
ミナトが呟くと、影が現れた。
闇から溶け出すように、黒い人影。
顔は見えない。
だが、こちらを見ている。
「君は救いたい」
影が言う。
「だが正義では救えない」
ミナトは答えない。
影は続ける。
「君は今日、知った。
正義は“選ばれなかった者”を切り捨てる」
ミナトの中で、あの幹部の言葉が再生される。
――選ばれなかった者に、救済の優先権はない。
「……俺は、救いたい」
ミナトの声が、低く震えた。
「救いたいのに……
俺は、何もできない」
影は、少しだけ近づく。
「なら、来い。
君の“救い方”を渡す」
「……それは、闇だ」
ミナトは言った。
影は否定しない。
「光が腐った時、闇は秩序になる」
ミナトは目を閉じる。
少年の顔が浮かぶ。
泣かない少年。
“正義に選別された”少年。
そして、仲間の目。
正しい目。
だから変えられない目。
ミナトは目を開き、静かに言った。
「……なら、俺が選ぶ」
影が、わずかに頷いたように見えた。
「次の夜。
“黒環”拠点――そこに来い」
ミナトの拳が、強く握られる。
胸の奥が熱い。
痛みではない。
決意の熱だった。
影は最後に、低く告げた。
「そこで、世界は割れる」
闇が消える。
ミナトは一人、路地に残された。
だがもう、孤独ではない。
闇が彼に“居場所”を差し出したからだ。
遠くで、街の灯りが静かに揺れていた。
それは、決別の前兆のような夜だった。
――第5話 終わり。




