82. 三日月を喰らう鷲
「なんのために……?」
エリナが、叫んだ。
「街を滅ぼそうなんて、一体何が目的なのよぉ!!」
その叫びは、悲痛だった。
スタンピードで、いくつもの村が沈み、もう少しでクーベルノーツも滅ぶところだった。それが、全て――人の手によって、引き起こされたもの?
「分からん……」
エルウィン博士が、首を振った。
「奴らの目的は、まだ分からん。だが……」
博士は、机の引き出しから一枚のスケッチを取り出した。
「奴らの『印』だけは、判明した」
そこに描かれていたのは――三日月を喰らう、一羽の鷲。
その紋章は禍々しく不吉で、見ているだけで不快感を催すものだった。鷲の目は赤く、まるで血のように描かれている。三日月は、鷲のくちばしにくわえられ、今にも砕かれようとしている。
「これは……」
レオンが、息を呑んだ。
「この寄生体の核に、微細な魔術刻印で、これが刻まれていた」
エルウィン博士が、説明する。
「恐らく、製造者の印だ。この紋章を持つ組織が、寄生体を作り出し、スタンピードを引き起こし、そして――」
博士は、ギルバートを見た。
「公爵を操っている」
その言葉に、ギルバートの拳が震えた。
「……許せん……」
低く、怒りに満ちた声。
「許せん……!」
拳が、テーブルを叩いた。ドンッ、という音が響く。
「この紋章の組織を……必ず、見つけ出す……!」
その目には、復讐の炎が燃えていた。
「落ち着いて、ギルバート」
シエルが、ギルバートの肩に手を置く。
「怒りは分かる。だが、冷静にならなければ、奴らの思う壺よ」
「……分かっている」
ギルバートが、深呼吸をする。
◇
レオンは、スケッチを見つめ続けていた。
三日月を喰らう鷲――――。
その紋章が、脳裏に焼き付く。
その紋章を目にした瞬間、レオンの世界から音が消えていたのだ。
老魔術師の声も、ギルバートの怒りも、全てが遠い世界の出来事のように聞こえる。まるで水の中に沈んでいるかのような、くぐもった音。視界が歪み、紋章がぼやける。けれど、その形に脳裏に錆び付いた記憶の扉をこじ開けられていた。
三日月を喰らう、鷲。
長い間、固く閉ざし、鍵をかけ、封印していた扉。決して思い出してはならない扉。それが音を立てて開き、封じ込めていた記憶が、鮮血の色と共に溢れ出す。
◇
あれは七年前、レオンがまだ十一歳だった頃。
活気に満ちた街の大通り。太陽が燦々と輝き、青空が広がっている。露店が並び、人々が行き交う。笑い声、掛け声、全てが平和で温かかった。
まだ幼いレオンの手を、もっと小さな妹リナがしっかりと握っていた。小さな、温かい手。その感触が、今でも忘れられない。
リナは七歳。小さくて、可愛くて、いつも笑っていた。茶色い髪を二つに結んで赤いリボンをつけ、白いワンピースを着て。まるでお人形さんみたいだった。
『お兄ちゃん、見て! あのリンゴ飴、大きいよ!』
リナが屋台を指差して叫んだ声は、鈴のように澄んでいた。
『ねえ、買って買って!』
リナがレオンの服の袖を引っ張る。
『分かった分かった。じゃあ、買ってあげるから』
レオンは笑いながら答えた。妹が喜ぶ顔を見るのがレオンの幸せだった。二人は手を繋いで、笑いながら、屋台へと向かった。
平和な、幸せな日常。それが一瞬で地獄に変わった――――。
◇
突然、遠くから蹄の音が聞こえてきた。ガン! ドン! という激しい音。そして人々の悲鳴。
「馬車の暴走だ!」「逃げろ!」
レオンが振り返ると、制御を失い暴走する一台の豪華な馬車があった。二頭の馬が狂ったように走っている。その目は赤く充血し、泡を吹いている。御者はもう馬車にいない。馬車は次々と人を轢きながら、突進してくる。
「危ない!」「キャァァァ!」「ひぃぃぃ!」
人々が逃げ惑い、押し合い、転び、踏みつけられる。パニック。レオンとリナも人の波に飲み込まれた。
「お兄ちゃん!」
リナが叫ぶ。けれど二人は突き飛ばされ、リナが転んだ。小さな体が地面に倒れる。
「リナ!」
レオンが叫ぶ。けれど人々に押され、妹から離れていく。
「お兄ちゃーーん!」
リナが助けを求めて手を伸ばす。その顔には恐怖が浮かび、涙が頬を伝っている。
レオンは何とか妹に向かって走り、腕を伸ばし、妹の手を掴もうとした。けれど、その瞬間、暴走してくる馬が視界に入った。巨大な体、赤く充血した目、泡を吹く口。その異常な迫力に、レオンの体が硬直した。足が動かない。腕が止まる。呼吸ができない。恐怖が全身を支配する。
「お兄ちゃん! 助けてぇぇぇぇ!」
妹の叫び声。けれど、レオンは動けなかった――――。




