70. 運命の歯車
「……はっ」
ただ頷くだけ。
「抵抗するなら傷つけても構わん。アステリア家の栄光を阻む者は許されん」
『傷つけても』――その言葉に、ギルバートの心臓が激しく波打った。これは、自分が知るアウグスト公爵の言葉ではない。こんな非情な命令を、公爵様が下すはずがない。
数ヶ月前から、公爵の様子がおかしかった。時折見せる非情な判断。人間味の欠けた瞳。そして微かに漂う、禍々しい魔力の気配。ギルバートは気づいていた。誰よりも早く。けれど、何もできなかった。
アステリア家への絶対的な忠誠を誓った自分に、主君を疑うという選択肢はなかった。それは自らの魂を裏切るに等しい行為だったから。
拳を握りしめる。その拳が震えている。
脳裏に、幼いシエルの姿が蘇った。木剣を手に必死に自分に食らいついてきた小さな姫。汗だくになりながらも、決して諦めない瞳。何度転んでも立ち上がる姿。
『すごい! ギルバートは、どうしてそんなに強いの?』
キラキラと輝く、あの瞳。ギルバートはあの日、膝をつき小さな姫の頭を撫でながら誓った。
『姫様をお守りするため、です』
あの日の誓い。けれど今、下された命令は、彼女の心を殺すことに等しい。
許せ、姫様……。
どうしようもない無力感と絶望に、ギルバートは奥歯を強く噛みしめた。その目が潤んでいるのに、気づく者はいなかった。
「――御意に」
深く頭を垂れた。その声には、隠しきれない葛藤が滲んでいた。
「行け」
その一言だけを告げ、公爵は再び窓の外を見る。
ギルバートは立ち上がり、部屋を後にした。
廊下に出たギルバートは、しばらくその場に立ち尽くしていた。握りしめた拳から、わずかに血が滲んでいる。
主君への忠誠と、姫への想い。その二つが、彼の魂を引き裂いていた。けれど、彼は騎士である。迷いながらも、命令に従うしかない。それが、彼に課せられた運命だった。
◇
その日の午後――。
公爵の屋敷の門から、一糸乱れぬ隊列を組んだ三十名の騎士団が出陣した。
パッカパッカ――。
蹄の音を響かせる馬の上で軽鎧を纏った精悍な騎士たち。蒼き獅子の紋章が刻まれた盾、磨き上げられた剣、そのすべてが、絶対的な力を示していた。
先頭を行くのはギルバート団長。その顔には何の感情も浮かんでいない。ただ、前だけを見つめている。騎士団が放つ血と鉄の匂いを帯びた圧倒的な威圧感が、道行く人々を沈黙させた。
誰もが道を開ける。誰もが息を呑む。誰もが恐怖する。
「あれは……蒼き獅子騎士団……」
「王国最強の……何があったんだ、あんな完全武装で……」
「ただの行軍じゃない。あれは、戦争に向かう姿だ」
周囲の人々の顔が青ざめる。騎士団はただ黙々と進んでいく。その蹄の音がまるで死の足音のように、街に響き渡る。
一人の老人が、震える声で呟いた。
「神よ……どうか、憐れみを……」
その祈りは、誰に届くこともなく、ただ空しく風に消えていった。
◇
まだ薄暗い早朝――。
ヒュンヒュン。
レオンは、窓の外から聞こえる音で目を覚ました。空気を切り裂く鋭い音が、規則正しく繰り返されている。
何の音だろう?
レオンはベッドから起き上がり、窓に近づいてカーテンをそっと開けた。その瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑む。
朝靄のかかる庭に、一人の少女が立っていた。銀髪が朝露に濡れて輝いている。弓を構え、矢を番える。その瞳は獲物を狙う鷹のように真剣そのものだった。
シエルだ。
ヒュンッ! 矢が放たれた。その矢はまるで意志を持っているかのように、淡い青い輝きを纏いながら空気を切り裂き、的の中心に吸い込まれていく。タンッ! 完璧な命中。
けれどシエルは満足していない。すぐに次の矢を番え、また放つ。今度の矢は、まるで風を掴むように不可思議な軌道を描いた。左に曲がり、右に曲がり、的の中心に吸い込まれる。タンッ!
魔力を矢に乗せて、軌道を操作している……?
レオンの目が見開かれた。それは高度な技術だった。矢に魔力を込めるだけでも難しいのに、さらに飛行中の軌道まで制御するなんて。スタンピードの時とは比べ物にならないほどの精密制御だ。
レオンの胸が熱くなった。シエルはまた強くなった。仲間たちの成長。自分が見ていない場所での努力。それが誇らしくもあり、同時に少しだけ寂しくもあった。
みんな、どんどん先に進んでいく。自分は【運命鑑定】を失って立ち止まっているのに。
けれど、その感情を振り払うように、レオンは首を振った。いや、違う。みんなが強くなるのは良いことだ。そうだ、それが自分の望みだったはずだ。
俺は、みんなを最強にする。
その決意を胸に刻む。シエルはまだ訓練を続けていた。ヒュン、ヒュン、ヒュン――その姿をレオンはしばらく見つめていた。朝日が昇り始め、銀髪の少女をオレンジ色に染めていく。
レオンはまだ知らない。この平穏な朝が、嵐の前の静けさに過ぎないことを。今この瞬間も、シエルを狙う騎士団が刻一刻と近づいていることを。
穏やかな朝の光の中で、運命の歯車は静かに、確実に回り続けていた。




