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17. 死地に咲く花

 エリナは唇を開きかけた。レオンと特別な関係だからと邪推されたことは心外である。けれど――。


(……足を引っ張っているのは事実だ)


 奥歯を噛み締める。


(もっとパワーさえあれば……)


 幾度となく繰り返される遭遇戦。その度に、ブラッドの剣が魔物たちを薙ぎ払う。銀の軌跡が闇を裂き、血飛沫が宙を舞う。エリナはその神速の剣技を瞳に焼き付け、己の身体に刻み込もうと試みる。だが現実は残酷だった。頭では理解できても、身体がついてこない。剣を振るえば剣速不足で空を切り、踏み込めばワンテンポ遅れて体勢を崩す――――。


 積み重なっていく挫折の山。膨れ上がっていく屈辱の澱。それでも時間だけは無情に流れていく。


 やがて、東の地平線に仄かな光が差し込み始めた頃――。


「着いたぞ」


 ブラッドの重い声が、静寂を破った。


 目の前に広がるのは、両側を切り立った岩壁に挟まれた細い道。まるで大地が巨人の剣で切り裂かれたかのような、天然の隘路(あいろ)。朝靄が立ち込め、その奥は深い闇に沈んでいる。


「ここが、奴らの死に場所となる」


 【運命鑑定】が示した、宿命の戦場。


 間もなく、火砕流から逃れた数百の魔物が、ボスと共にこの狭い道へ雪崩れ込んでくるはずだ。多勢に無勢の戦いを覆す太古より伝わる戦術――隘路での待ち伏せ。ボスをしとめるにはこの作戦しかなかった。


「陣形を敷け! 一匹たりとも通すな!」


 ブラッドの号令が谷間に響き渡る。


 兵士たちが素早く散開していく。岩陰に身を潜め、弓に矢をつがえ、剣を月光に煌めかせる。殺気と緊張が、薄明の空気を震わせた。


 エリナも定められた位置へと足を運ぶ。だが、剣を構えようとしたその手が、小刻みに震えていることに気づく。


(私に……本当にできるのだろうか?)


 薄明の光を受けた赤い刀身が、まるで血に濡れているかのように、妖しく輝いた。それは彼女自身の不安を映し出す鏡のようでもあった。



        ◇



 少し時は(さかのぼ)る――。


 シエルは砦で最も高い監視塔の頂に立っていた。月明かりが照らし出すのは、眼下を埋め尽くす三万の魔物の群れ。まるで黒い海が蠢いているような光景に、身体の芯が凍りつく。


 激しい風が吹き付ける。銀髪が嵐のように舞い上がり、さらしで押さえつけた胸が、恐怖で小刻みに震えてしまう。


 黒く蠢く死の海原。

 飢えた獣たちの咆哮。

 三万という、理性を失った悪意の塊。


 もはや砦など眼中にない。彼らの本命はクーベルノーツに住まう十万の命。だが、血に飢えた魔物たちは、前菜として砦を蹂躙しようとしている。その殺意が、夜風に乗って肌を刺した。


(私の……私の役目は、この砦を死守すること)


 シエルは震える手で愛弓を握りしめる。革の感触が、掌に汗を滲ませた。


 かつて公爵令嬢として、優雅な狐狩(きつねが)りで獲物を射止めたことはある。冒険者となってからも、ダンジョンで小物の魔物を倒したこともある。


 だが、これは――。


(違う……何もかもが、違いすぎる!)


 眼前で渦巻く三万の悪意。

 背後で震えている三百の命。

 天秤に載せられた、十万人の未来。


「ど、どうしよう……本当にできるのかな……ボク……」


 膝が笑う。指先が痺れる。呼吸が浅くなっていく――。


 砦の弓兵たちは城壁に配備されている。だが、最重要拠点であるこの監視塔は、【運命鑑定】の指示により、シエル一人に託されていた。たった一人で。


(ボクが失敗したら、みんな死ぬ……)


 重圧が胸を押し潰そうとする。息が、できない――――。


「くぅぅぅ……」


 シエルは震えを抑えようと、無意識に弓を構えた。


 その瞬間――。


『シエル、君の弓は神域に達する』


 レオンに初めて会った時言われた言葉が、魂の奥底から響いてきた。


「……え?」


 刹那、世界が一変した――――。


 愛弓が突然、黄金の光を放ち始める。視界に無数の光の粒子が舞い上がり、まるで天の川が降りてきたかのように煌めいた。


「な、なに……これ……?」


 三万の悪意に押し潰されそうだった死の恐怖が、逆に【神弓の才能】を強制的に開花させたのだ。


 月明かりでは見えなかったものが、次々と浮かび上がってくる。


 闇に潜む殺意の軌跡。

 空を切り裂く羽音の振動。

 迫りくる死の気配、その全て。


「!」


 シエルの碧眼が大きく見開かれる。


「な、何あれ?!」


 月光を遮る、無数の影。蝙蝠のような翼を持つ、醜悪な小悪魔(インプ)の群れが、静かに砦に向かって飛来してくる。


「て、敵襲! 十時の方向、インプが十……いや、三十以上!」


 叫びながら、シエルは流れるような動作で矢を番える。


 恐怖が、使命感に変わる瞬間――。


 もう震えは、完全に止まっていた。


(ボクが守る! みんなを、この砦を!)


 ヒュッ!


 放たれた矢が月光を切り裂いて飛ぶ。その軌跡は、まるで流星のように美しく――。


 タン!と、正確にインプの眉間を貫通。醜い悲鳴と共に、悪魔が地に墜ちていく。


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