138. 赤いテールランプの川
「いててて……」
レオンは、しりもちをついた。
そして、思わず漆黒の鱗に手をついて――その感触に、目を見開いた。
硬い。
けれど、不思議と温かい。
まるで、日向で温められた岩のような感触。
その下で、巨大な心臓が脈打っているのが分かる。
ドクン、ドクン、と。
生きている。
この巨大な存在は、確かに生きているのだ。
巨大な背中は、十人以上が乗っても余裕がありそうだった。
漆黒の鱗の間から、ところどころ鋭い突起が生え、それがまるで手すりのように、乗り手を支えていた。
「はい、じゃぁ恵比寿までヨロシク!」
シアンは龍の後頭部にひょいっと座り込むと、ペシペシっと鱗を叩く。
まるで、馬の首を叩くような気軽さで。
「もぅっ! そんなタクシーみたいに……」
レヴィアは、単なる乗り物扱いされることに不満をこぼす。
天下の真龍が、タクシー代わりとは沽券にかかわるのだ。
「つべこべ言わない!」
シアンはブンっと腕を振り上げた。
金色の光が龍全体を包み込み、漆黒の鱗が黄金の輝きを帯びていく。
美しい――。
伝説の龍が黄金の光を纏った。それは恐ろしいほどに、美しい光景だった。
「へっ!?」
レヴィアが驚いた声を上げた。
自分の意思とは関係なく、力が身体に流れ込んでくるのだ。
これはまさか――?
「ソイヤー! 行っけぇ! きゃははは!」
シアンが、楽しそうに叫んだ。
次の瞬間、ドンッ!と凄まじい加速が、全員の身体を襲った。
一気に引っ張られ、視界が一瞬白くなる。
「ひょえぇぇぇ! 危ない! 危ないですって! うわぁぁぁ!」
勝手に加速させられて、レヴィアは目を丸くして慌てていた。
自分の身体なのに、自分で制御できないのだ。
「ごはっ!」「ひぃぃ!」「いやぁぁ!」「もぉ!」
少女たちも、龍の鱗の突起にしがみついて、必死だった。
ウェディングドレスが、激しくはためく。
渋谷の夜景が、流れ星のように後方へ飛んでいった。
風が、頬を叩く。
「それそれぇ! きゃははは!」
シアンは、心底楽しそうに笑っていた。
そして龍の身体を、くるりと回転させる。
バレルロール。
世界が、ぐるりと反転する。
「きゃぁぁぁ!」
「もう無理ぃぃぃ!」
悲鳴が、夜空に響き渡った。
シアンは、そんな悲鳴すらも楽しんでいるようだった。
いきなり上空に現れた巨大な光る龍に、渋谷の街は騒然となった。
無数の人々が空を見上げている。
映画か何かの撮影なのか。
空中に映像を投影しているのか。
人々は、その異常事態をいぶかしそうに見つめていた。
誰もが、スマートフォンを掲げて映像を撮ろうとしたが――なぜか、カメラには何も映らなかった。
星すら見えない都会の空しか撮れず、龍の姿はどこにも映らない。
スマートフォンが故障したのかと、人々は首を傾げている。
画面を確認し、設定をいじり、また空を見上げる。
確かに、そこには金色の光を纏った巨大な龍が飛んでいるのに。
シアンの力が、人間の記録装置を欺いているのだろう。
◇
そんな群衆たちの上空を飛びながら、レオンは眼下に広がる光景を見つめた。
地上に降りた銀河。
四千万の命が紡ぐ、光の海。
その上を、美しい花嫁たちと一緒に、漆黒の龍に乗って飛んでいく。
風が、優しく頬を撫でる。
まるで、夢の中にいるようだった。
いや、夢でも――こんなことにはならないだろう。
追放された落ちこぼれが四人の美しい花嫁と結婚して、伝説の龍に乗って、異世界の光の海の上を飛んでいる。
こんな物語、誰が信じるだろうか。
レオンは、隣に立つエリナを見た。
ウェディングドレス姿の彼女が、夜風に黒髪を靡かせている。
その横顔は、どこか郷愁に満ちていた。
黒曜石の瞳が、眼下の光景を見つめている。
懐かしそうに。
そして少しだけ、切なそうに。
前世で笑い、泣き、夢を見て――過労でぶざまに命を落とした街。
その光の一つ一つに、かつての記憶が宿っている。
レオンはそっとエリナの手を握った。
冷たい夜風の中で温かさが伝わる。
エリナは、少し驚いたように振り向いた。
黒曜石の瞳がタキシード姿のレオンを映し――そして微かに、微笑んだ。
いつもの鋭い表情ではなく、クールな仮面を脱ぎ捨てた、素顔の笑み。
言葉はいらない。ただ、手の温もりがすべてを語っていた。
大丈夫だ、一人じゃない、と。
これからは、ずっと一緒だ、と。
エリナはそっとレオンの肩に頭を預けた。
黒髪が、彼の頬をくすぐる。
甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
その重みが、何よりも愛おしかった。
気づけば他の三人もレオンの周りに集まってくる。
レオンはニコッと笑うとみんなを引き寄せ、一緒に美しい夜景に見入った。
龍は首都高速三号線、赤いテールランプの光の川の上をゆっくりと横切って飛んでいく。
渋谷から、恵比寿へ。
過去から、未来へ。
四人の花嫁と、一人の花婿を乗せて。
新しい物語の、始まりを告げるように。




