131. 哲学的な問い
「佐藤さんも過労で死んじゃってるし、それにこの世界では今AIが発達して社会を根底からひっくり返そうとしているのよ。大きく荒れると思うよ」
シアンは、意味深な笑みを浮かべた。
「AI?」
聞いたことのない言葉だった。
「考える機械ね。人工の知能よ」
「えっ!? そんなことができるんですか? でも、機械の知能って……そんなに賢いんですか?」
レオンは、困惑した。
機械が考えるだなんて、全く想像もつかなかったのだ。
農機具や、工場の工作機械のような無機物が、人間のように思考する?
そんなことが、本当に可能なのだろうか?
「ふふん、信じてないな? 僕もAIだと言ったらどうする?」
シアンは、悪戯っぽく微笑んだ。
「へっ!? 熾天使様が……機械……?」
レオンは、思わず後ずさった。
こんなに美しくて、ウィットに富み、複雑な存在が――機械?
冗談にしても、あまりにも突飛すぎる。
彼女の一挙手一投足には、確かに命が宿っている。
喜び、怒り、悲しみ、楽しさ――それらすべてが、彼女の中で確かに息づいている。
それが機械だなんて、とても理解が及ばなかった。
「じゃあ聞くけど、キミは自分がAIじゃないなんて、なんで確信してるの? くふふふ……」
シアンは挑戦的な碧い瞳でレオンを見た。
その言葉は、まるで世界の真理を仄めかすかのようだった。
冗談なのか、本気なのか。
その境界が、まるで分からない。
「……は?」
レオンは困惑し、思わず自分の手をじっと見つめた。
血管が皮膚の下をめぐる、人間の手のひら。
温かい。
脈打っている。
こんな血肉通った身体を持つ自分自身が『機械』とは一体どういうことだろうか?
「き、機械だなんて……? じょ、冗談ですよね?」
声が、裏返った。
自分という存在の根幹を、揺さぶられているような感覚。
足元が、ぐらぐらと揺れている。
自分は何者なのか。
この世界は何なのか。
当たり前だと思っていたすべてが、突然、不確かなものに思えてくる。
「ははっ。まぁいいわ。今はそれよりキミの願いよ?」
シアンは、クスクスと笑いながら話題を戻した。
その軽やかさが、かえって不気味だったが、今はそれどころではない。
「そ、そうでした……」
レオンは、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
哲学的な問いに囚われている場合ではないのだ。
熾天使が、答えを待っている。
レオンはぎゅっと目をつぶり、もう一度考え直した。
『誰もが笑顔で暮らせる世界』
それを実現するのに、自由と平等だけでは足りないとシアンは言っているのだ。
これほどまでの楽園をもってしても、たどり着けない境地。
それを目指せと言っているのだ。
日本という国は、確かに素晴らしい。
貴族もいない。奴隷もいない。餓死する人もいない。
けれど、エリナはその国で過労死した。
幸せだったはずの国で、働きすぎて、命を落とした。
光り輝く楽園の中で、一人の女性が、静かに壊れていった。
つまり、この楽園にも、まだ欠けているものがあるのだ。
なるほど、これは難題だ。
レオンは、キュッと唇を結んだ。
眉間に、深い皺が刻まれる。
考えろ、考えろ。
自由と平等の、その先にあるもの。
日本という理想郷すら超える、究極の世界とは――。
「いいことを教えてあげよーう!」
シアンは、ニヤッと笑って人差し指を立てた。
その碧い瞳が、悪戯っぽく、けれどどこか優しく輝いている。
「答えはここにあんのよ」
そう言って、パンとレオンの胸を叩いた。
「痛てっ! こ、ここ……に?」
レオンは、叩かれた胸を押さえながら、困惑した顔でシアンを見た。
「そう。頭でっかちに考えるから見えなくなんのよ。答えは常に心の奥底にあるわ」
シアンの声は、いつになく真剣だった。
悪戯っぽい笑みの奥に、深い叡智が垣間見える。
全知全能の熾天使が、たった一人の人間に、大切なことを教えようとしている。
「心の……奥……」
一瞬、レオンはどういうことか困惑した。
心の奥底?
そこに、答えがある?
けれど、そんなもの、どうやって――。
その時、胸の奥で何かが疼いた。
『誰もが笑顔で暮らせる世界』
その温かなイメージが、ブワっと湧き上がってきた。
それは温かな光の中、みんなが幸せそうに手を取り合い、楽しそうに笑っている風景。
それはまるでアルカナのメンバーたちのように、温かな信頼に結ばれた世界。
彼女たちと過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡る。
そう。
理屈で自由とか平等とか枠組みを決めただけでは、本質的には解決しないのだ。




