130. 四千万の夢
「馬鹿だったわ。仕事のことしか考えてなくて、自分の身体のことなんて、全然気にしてなかった……」
その言葉には、深い後悔が滲んでいた。
「でも……」
エリナは、眼下に広がる夜景を見つめた。
その黒曜石の瞳に、無数の光が映り込んでいる。
懐かしさと、切なさと、そして――微かな誇りが、その眼差しに宿っていた。
「ここはいい国よ。貴族もいないし、奴隷もいない。とても平等な国だわ」
声が、少し震えていた。
「餓死する人なんていない……。生まれた家柄で人生が決まることもない。努力すれば、誰でも夢を叶えられる……そういう国よ」
エリナは、少し寂しそうな顔で微笑んだ。
それは、郷愁の笑み。
あの光の海の中で、かつての自分が生きていた。
笑い、泣き、怒り、喜び――そして、命を落とした。
その記憶が、今、鮮やかに蘇っている。
「そ、そうか。そんな国が……できるんだね」
レオンは、感慨深げに呟いた。
貴族も奴隷もいない世界。
誰もが平等に生きられる世界。
それは、レオンがずっと夢見てきた理想郷そのものだった。
幼い頃から、ずっと胸の奥で燃え続けてきた炎。
けれど、誰に語っても鼻で笑われた。
夢物語だと。
現実を見ろと。
お前のような落ちこぼれに、何ができるのかと。
いつしか、自分でも諦めかけていた。
実現不可能な空想なのだと、心のどこかで認めてしまっていた。
けれど――それは、確かに存在した。
目の前に、こうして広がっている。
「そう、できる。見渡す限り……四千万人の人が、そうやって幸せに暮らしているわ」
「よ、四千万人!?」
「ひぇっ……!」
「ほわぁ……」
レオンたちは、その数字に絶句した。
四千万人。
王国最大の都市、王都ですら四十万人なのだ。
それが、百個分。
王都が百個も並んでいるような、途方もない規模の都市。
それが、目の前に広がっている。
想像すら、追いつかない。
光の海の中で、四千万もの命が、今この瞬間も息づいている。
笑っている人がいる。
泣いている人がいる。
愛し合い、また、夢を追いかけている人がいる。
そのすべてが、この光の一つ一つなのだ。
それが、四千万。
レオンの翠色の瞳が、潤んだ。
胸の奥で、何かが熱く燃え上がる。
できる。
本当に、できるんだ。
誰もが幸せに暮らせる世界は夢物語なんかじゃない。
人の手で、創り上げることができる。
レオンはぎゅっと拳を握り、その奇跡の街をじっと見つめた。
瞳に映る無数の光が、まるで彼の決意を照らし出しているかのようだった。
◇
「で、レオン君? キミの願いは?」
シアンは、ニヤッと笑って言った。
その碧い瞳が、期待に輝いている。
まるで、面白い答えを待ちわびる子供のように。
「えっ? ね、願い事……」
「そうよ、そのためにわざわざ連れて来たんじゃない!」
シアンはジト目でレオンを睨んだ。
しかし、レオンは夢をどう願い事にしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。
見劣りのする小さな街で汲々としている自分たちの世界と、この日本の姿。
そのギャップの大きさに、完璧に許容量を超えてしまっていた。
石造りの家々と、泥だらけの路地。
飢えに苦しむ民と、それを見下す貴族たち。
それが、レオンの知る世界のすべてだった。
いったい何をどう願ったらこの光の海に、天を衝く塔の群れにできるのだろう?
あまりにも違いすぎて、どこから手を付けたらいいかすら分からない。
しかし、何か答えねばならない。
熾天使が、答えを待っている。
何を――何を願えばいい?
「くぅぅぅ……。そ、それは……こんな国を……創りたい……」
レオンは、震える声で答えた。
それしか、思いつかなかった。
目の前にある理想郷。
それと同じものを、自分たちの世界にも――――。
しかし、シアンはあっさりと肩をすくめた。
「それじゃダメね」
その声には、一片の容赦もなかった。
「えっ?」
レオンは、目を見開いた。
ダメ?
なぜ?
「だってもう日本はあるのよ? これと同じものを作ることの何が面白いのよ?」
シアンは、退屈そうにため息を漏らした。
その碧い瞳には、失望の色が浮かんでいる。
「そ、そう……ですね……」
レオンは、言葉を失った。
なるほど、熾天使はもう日本では満足しないのだ。
これを超える世界を創れと言っているのだ。
既存の正解をなぞるだけでは、神の使いは喜ばない。
彼女が求めているのは、まだ誰も見たことのない、新しい答え。
しかし、そんなこと、どうやれば……?




