101. 神に一番近い所
その狂信的な論理に、レオンが喉を震わせて叫んだ。
「何が害虫だ! 何が排除だ! 神の名を騙って人を殺すお前の方が、よっぽど害虫じゃないか!」
しかし――――。
「はぁぁぁ……」
イザベラは、心底うんざりしたように首を振り、深い溜息をついた。
「旧態依然とした愚かな発想から抜け出せない害虫には、何を言っても無駄ですわね……。所詮、理解できないのでしょう。神の偉大さも、その御心も」
そして、イザベラは再びミーシャへと視線を向けた。
その瞳には、歪んだ愛情が滲んでいる。
「さあ、ミーシャ。貴女の居場所は、ここですわ。神に一番近い所へ……戻っていらっしゃい」
イザベラが、優しく手を差し伸べる。
その手は、まるで溺れる者を救う救いの手のように見えて、実は深い闇へと引きずり込む悪魔の手だった。
「外の世界で傷つく必要はありません。私の傍で、神に仕える清らかな聖女として、永遠に、永遠に生きるのです。それが、貴女の幸せですわ」
イザベラの声が、甘く、甘く響いた。その言葉は、優しさの皮を被りミーシャの心を縛り付けようとしている。
ミーシャは――ただ、震えていた。
かつて「お母様」と慕った人。孤児院で唯一、自分に優しくしてくれた人。神の教えを授け、生きる意味を教えてくれた、かけがえのない存在。その人が今、こんな怪物のような言葉を吐いている。
その現実が、彼女の心を深く、深く傷つけていた。まるで、心臓を直接握りつぶされるような痛み。息ができないほどの苦しみ。
どうして。
どうして、こんなことに。
信じていたものが、崩れ落ちていく。
「何を言うんだ!」
レオンの叫びが、水面を激しく震わせた。
「ミーシャはもう僕らの家族だ! かけがえのない、大切な仲間なんだ! お前のような狂信者になんて、絶対に渡さないぞ!」
その声には、確固たる決意が込められていた。凍えるような冷水の中でも、レオンの翠色の瞳は強く輝いている。
「ふふっ」
イザベラは、愉快そうに笑った。まるで、可愛い子供の喧嘩を見るような、余裕のある笑み。
「でも、ミーシャはそう思っていないみたいですわよ? ねえ、ミーシャ?」
「え……?」
レオンは、はっとしてミーシャを見た。
彼女は俯いたまま固まっていた。金髪が顔を覆い、その表情は見えない。けれど、その肩が小刻みに震えている。
「ミーシャ!」
レオンは必死に声をかける。喉が裂けそうなほど、声を張り上げる。
「何を悩むことがある! こんな大量殺人鬼に寝返るなんてこと、ありえないよな!?」
レオンは重い腕を必死に動かし、ミーシャの腕を掴んだ。
氷のように冷たい肌。震える腕が、彼女の動揺を物語っている。
「でも……」
ミーシャの声が、か細く響いた。まるで、消えてしまいそうなほど弱々しい声。
「このままじゃ……みんな……殺されちゃう……」
「え……?」
「私が……お母様に頼めば……みんなは……助かるって……思うの……」
その小さな、小さな呟きに、レオンの胸が締め付けられた。
ああ、そうか。
ミーシャは、仲間を守ろうとしているのだ。自分を犠牲にしてでも、大切な仲間たちを助けようと。それが、彼女の優しさだった。
「何を言う! ダメだ!」
レオンは、ミーシャの腕を強く握りしめた。その手に、力を込める。
「それとこれは別の話じゃないか! 君が犠牲になる必要なんて、どこにもない! 絶対に、ない!」
「でも……私なら……私が我慢すれば……みんなは……」
「ミーシャ!」
エリナが、震える声で叫んだ。
「アルカナは五人でアルカナよ? 一人でも欠けてはいけないのよ?」
「そうよ!」
ルナも、涙声で叫ぶ。その緋色の瞳から、涙が溢れ出していた。
「私たちは仲間よ! 家族なんだから!」
「まだ絶望する時間じゃないわ、必死に道を探しましょう!」
シエルの声にも、必死さが滲んでいた。その碧眼が、涙で揺れている。
けれど、ミーシャは答えない。
ただ、俯いたまま、震えている。
その心の中で、二つの内なる声が激しく戦っていた。
イザベラに降って仲間を助けるか――だが、それは大量殺人にくみすること。
拒否して無理筋の勝機を探すか――だが、失敗すれば死だ。
どちらが正しいのか。
どちらを選べばいいのか。
もう、分からない。
「ほら、ミーシャ」
イザベラの声が、優しく、甘く響いた。
「つかまりなさい。引き上げてあげるわ。そうすれば、こいつらは助けてあげましょう」
彼女は、魔法で作り出した淡い光を纏う浮き輪を、ミーシャの目の前に投げた。聖なる光を放つ浮き輪が、静かに水面に落ちる。
ミーシャの手が、無意識に、ゆっくりと浮き輪へと伸びていく。
救いの手。
みんなを助けられる、唯一の手段。
それを掴めば――。
「ふざけんなよ!」
レオンの絶叫が響き渡った。




