キス魔
後日談。
初めての外出から怒濤の冒険を繰り広げて帰ってきた二人だが、シュヴァリ夫妻に頭を下げに行ったり、森を慌ただしく駆け回ったりと、帰ってきた後もせわしない日々が続いている。
変わったことをいちいち挙げていくと、些細なことから大きなことまできりがない。一番大きな変化としては、森の中に夫妻以外の人間が入ってくるようになったことだろうか。
実家から送り込まれてきた刺客――と言ってるのはルシアンだけで、非常に感じのよろしい温和そうな老婦人であった。つまりはランチェ王家から派遣されてきたお目付役のようなものだろう。
なにやら面白くなさそうなルシアンと既知らしい老婦人の様子に、ご実家も長い間家出していた息子さんが心配なんですねと勝手に蚊帳の外でほっこりしていたフローラだったが、すぐに他人事でないことを悟る。
ルシアンが王城に挨拶に行くまで、一月の猶予が与えられた(ちなみにさすがは魔法国家、当日になってルシアンが渋るようなら、王室付き筆頭魔法使いと第二王子が捕獲にやってくるらしい。向こうも本気だ)。
そしてその間、フローラは週五でビシバシと、見た目にそぐわぬ鬼教官によって、貴族のマナーをたたき込まれることになったのだ。
老婦人はほぼ毎日、魔法使いの家の前まで転移魔法でやってきて、帰りも転移魔法で帰って行く。本人は特に魔法が使えないらしいので、たぶん王家のバックアップがあるのだろう。
それが何を意味するのか、自分が何故か急にレッスンを受けるようになったことも含め、細かく考えると怖くなる一方のフローラは意識して深追いしないようにしている。
ちなみに当初は毎日と言っていたところを週休二日の温情が出たのは、ルシアンの猛抗議があったためである。
彼は老婦人に向かい、生産性が云々とか、適度に休みを入れることが真の効率化であるとか、散々理屈をこねていたが、何のことはない。
せっかくダイナミックに告白しあって、森も平和になって、さあ二人きりでやることは――と来たときに露骨に邪魔が入ったので怒っている、ただそれだけだ。初めての恋に浮かれる若い男は単純である。
ランチェ男には、オープンスケベかムッツリスケベの二択しか種類がない。好意的に表現すれば素直な気質と言えよう。愛情は行動を以て伝達する――ただし、ディーヘン人にはちょっと暑苦しすぎるほどに。
つまり老婦人がフローラの行儀作法指導の名目で通い詰めているのは、どちらかというと弟王子のあれこれを把握している兄王子二人からの「お前にはまだ早い、時が来るまで待つのだ、早まるな」と言うメッセージであったのだ。
が、そんなランチェ事情に全く疎いフローラは、高貴な人に自分が近づいたことで王家が快く思っていないのではなかろうか、訪問の日に何か粗相があったらどうしよう等、密かにキリキリ胸を痛めている。
胸を痛めているというか頭を悩ませている事は、もう一つある。ルシアンの態度の変化だ。
ランチェ人の気質については先ほど言ったとおりである。
大冒険の後、不器用な彼の態度がまたぎこちなくなったのか? むしろ逆なのだ。
フローラは週五日間のレッスンを入れられている。ということはその間、当然のことながら本来の家事業務はこなせない。
となると、休みの二日間、特に久しぶりに雲一つない快晴になった今日なんかは、集中して挽回したいところなのに――。
「あのですね、ルシアン様……!」
とうとう耐えかねたフローラがくるりと振り返って目をつり上げると、彼は彼女の腰からさっと手を離し、しれっとした顔で石版を出した。
『なんだ? 発声練習ならリハビリ中だから大目に見てほしい』
「いえその、ちゃんと口で喋ってくださいと言う気持ちも大いにあるのですがそれはお気持ちの問題もありますし仕方ないところもあるとして、今回はその前にですね、もっと問題のあることについてお話し合いをしたいと思うのです……」
十年間、しかも青春時代を筆談で過ごした男は、いきなり声が出るようになったからと言って流暢に喋るようになったわけではなかった。
間に声変わりを挟んでしまっているため、自分の認識している声(声変わり前)と自分の現在出せる声(声変わり後)にかなりのギャップがあり、本人としては非常に気持ち悪く感じるのだと言う。
フローラに聞こえてくる心の声はきちんと低音だったのに、彼の方では十年間、十年前のままの声で喋っているつもりだったということなのだろうか。なんだか不思議な話だ。
また本題から意識がそれていきそうになって、フローラは慌てて首を振り、腰に手を当てる。
小柄でほっそりした彼女が、ちょっと怖い顔をして下から見上げたところで魔法使いは一層和んでいるだけなのだが、うぶな彼女がムッツリスケベの内面をおもんぱかれるはずもない。
「わたしたち、ちょっと、最近、くっつきすぎだと、思うのです!」
ついに言い放った内容の方まで、なんともほんわかしていた。
魔法使いがかくりと首をかしげる。
『……何か問題があるだろうか?』
「ぎょっ……業務に! わたしの業務に、支障が出ます!」
そう、ルシアンにとっての一番深刻な変化は邪魔者の定期訪問が出現したことだが、フローラにとってののっぴきならない変化はこっちの方なのだ。
端的に言うと、あの日以来魔法使いがどこに行くにもひっついてくるし、何をするにも接触を入れてくるし、隙を見つけると唇を重ねてくるのである。
老婦人の前ではそんなことはない。外部の人間がいるときは真面目に調合部屋に籠もっているし、今まで通りちょっと距離を置いた同居人で、お行儀のいい関係ですよという顔をルシアンはしている。
それがいなくなった瞬間から、べたべたべたべた(以下略)、とにかくくっついて回って離れなくなるのだ。
朝起きたらおはようの頬へのキス。朝ご飯がおいしかったからありがとうの額へのキス。調合がうまくいったら老婦人が席を外している隙を狙って手の甲へのキス。うまくいかなくてもやっぱり隙を狙って鼻にキス。晩ご飯の前にまぶたにキス。お休みの前に口に……。
もういちいちカウントするのがアホらしくなってくる。本当にあの魔法使いと同一人物なのか疑いたくなってくるほどだ。そして残念ながら紛れもない本人である。
嫌ではない。互いに憎からず思い合っている者同士、けしてこう、そういうことが嫌なわけではない。
が、何事にも限度というものがあるし、こっちの気持ちが追いつかないというか、身が持たないではないか。
何故フローラが消耗する一方でルシアンは日に日にツヤツヤしていくのか、これが納得いかない。
今話を始めるまでだって、魔法使いはフローラが振り返るまで、洗濯物を干す彼女の腰に両手を回してずうーっと彼女を堪能していた。週五日分のフローラ不足を補うとでも言うように、休日は特にこうだ。森に一緒に散策に行くとずっと手を離してもらえなかったりもする。
ランチェ人の客観としては、初めての恋人(仮)に舞い上がっている男の典型なのだが、お堅い国民性のフローラにはこの状況がいささか鬱陶し――スキンシップが過ぎるように感じるのだ。
というか、そういうことをされると、どきどきしてふわふわして頭がぽーっとして、仕事ができなくなるではないか。
何故この恥ずかしさをわかってくれないのか、とすっかり顔を赤くしつつもフローラが言いつのると、深緑色の目がぐらりと大きく揺れる。
『そんなに嫌だったのか……』
「いえ、その、数が多すぎると思います、というか」
「そんなに嫌だったのか……」
「いいえそんな、嫌ではないです、むしろこういうことをするの自体は――ルシアン様っ!」
繰り返すが、嫌ではない。けして嫌ではない。
ルシアンに甘くかすれた(かすれているのはたぶんサボって発声に慣れていないせいだが)声で囁かれると、反射的に是と言ってしまいそうになるほどには、嫌ではない。むしろ好きだ。
が、だからこそ、ここで堕落の道におぼれてはいけないと、フローラは強く自戒する。
何せ彼女は真面目なディーヘン気質。思い立ったらすぐ休んでデートに出かける軟弱なランチェ人とは仕事に対する真剣度が違う。
さらに、彼女が油断すると魔法使いがあっという間に家を様変わりさせてしまうため、自分がこの家の生存権の防波堤なのだという結構強固な危機意識もある。
「駄目です、いくらいい声でごまかそうとしたって、今日という今日ははっきりするって決めたんですから!」
「今思いっきり流されてたじゃないか」
「ルシアン様!?」
『しまった。聞き流してくれ』
「ルシアン様!!!」
声変わりやら今までの習慣が云々言っていたが、案外ルシアンは自分の声の(フローラに対する)価値を知っていて、威力を高めるためにわざと喋らないでいるだけなのではないか。
少し芽生えた疑惑はともあれ、こうやって話している間にもひょいっと顔を近づけてこようとした彼の唇にぎゅむっと掌を押し当て、フローラは言いつのる。
「とにかく、このままではわたしの身がもたないんです! その、やるなとは言いませんよ。わたしも、くっついたり、キス……したりするの、時々なら、すき……です。だからその、加減をしていただければなー、と……」
『よしわかった。それじゃとりあえず、キスもハグも一日一回にしようか』
「……え?」
『私だってあなたに嫌われたくはないし、あなたの仕事を妨害してばかりもいられない』
「……そう、ですよね。はい」
ここ最近の休日のべったりぶりからして、絶対もっと交渉は揉めると思ったのに、案外あっさりルシアンが引いてしまったのでフローラは拍子抜けする。
ほっとしたような、残念な気持ちになったような彼女は、どこか釈然としない思いでもやもやしつつも、洗濯物を終わらせて家の中に戻る。
「――ひゃっ!?」
戻ろうと玄関に手をかけたところで、ルシアンが急にひょいと後ろから手を伸ばしてきた。
驚きながらも振り返った彼女は、勢いで空になった籠を取り落とす。
拾おうとするが、ルシアンに体の両脇に手をつかれると逃げ場がなくなり、扉を背に追い詰められる。
「ルッ――ルシアン、様――?」
彼はつんとすましていた顔から、唇の端をぐっと上げてなんとも悪い笑顔になった。
息をのむフローラの唇を、ルシアンの指がつっとなぞる。
(ところで、必然的に、量が減るのだから質を高めることで補うしかない。つまりそういうことだな?)
「……へっ?」
(さあ、フローラ。今日の分、たっぷり補充させてくれ)
意識を伝え終わるのとほぼ同時に、ルシアンの大きな影が、華奢なフローラに覆い被さり、貪り尽くした。
その後、フローラは散々呼吸困難に陥り、結局腰が砕けた上に熱を出して午後の業務に多大なる支障を来すことになった。早々に一日一回のキスの約束を撤回し、元の数は多いが一つ一つは軽い生活に戻したのは、言うまでもない。
彼女の新生活は、恋人ができてからも、いや恋人ができてからより一層、前途多難であるようだった。
――その分、今まで以上に幸せでもあるが。
また何か思いついたら付け足すかもしれませんが、これにて今回の番外編更新も終了です。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。




