空(から)の大精霊
空が七つに割れた。まるで割れ物に石を投げつけたら綺麗にヒビが入ったような感じだ。城が空間ごと分かれてぐにゃりと曲がり、隙間からゆらめく半透明の何かが静かににじみ出る。
しゅるりしゅるりとうごめくそれは、なまめかしくも神々しい。なんと言えばいいだろう? 質感は光に似ていて透明だが、動きは少し粘度のある液体に似ている。先端が伸びていく様子は植物の成長を思わせる部分もあった。あれは腕であり、身体なのだ。
きらめく大いなる存在は、あっという間に異空間に染み出したかと思うと、狙い違わず黒い煙を包み込んだ。
断末魔は一瞬で消える。半透明の向こうの無限の闇に飲み込まれたようにも、あふれ出す光に浄化されたようにも見える光景だった。
ああ、どんなに言葉を尽くしても、彼女の琥珀色の瞳に映る情景を真に正確に描写することは叶わないだろう。だが何を今見ているのかは、はっきりわかる。
――かのものの名は空。遍在と無の主であり、接触したものを無にすることができる、七番目の大精霊。そして今見ているのが、その一端であり全容。
本来大精霊とは無定型で、人間の認識の一段上に存在している機構なのだ。その本性を人の身が目に収めることはできない。
けれどフローラの目は少々特別で――あらゆるものが見えすぎた。
(……そうだ。わたし、あのときも……)
封じられていた記憶がほどかれる。昔、越えてはいけないと言われた線をうっかり越えて、同じ姿を見たことがあったのを思い出す。
彼自身がフローラを呼びつけたわけではない。彼女を意図的に誘導したのは、もっと低級の精霊達だ。本能に任せ、幼子に甘い言葉をかけて少しだけ自分たちの方に引っ張った。
その近くに、ちょうどたまたま大精霊がいたのが、運の悪さと言えたのかもしれなかった。
母親の防御陣を踏み越えてしまった幼子は、うっかりとその本性の情報を脳に収めてしまう。
直後彼女を襲ったとてつもない痛みと苦しみは、人間の身体が壊れかけることへの、生き物としての警告だった。
普通、大いなる存在は、呼び出された時にこちらに合わせて姿を作ってくれる。呼び出す方も、相手の恐ろしさを知っていてあらかじめ身を守る儀を整えてから呼ぶから、事故は起こりにくい。
ところが彼女は魔法に関してずぶの素人のまま、混じりけのない本物を、よりによって琥珀色の目で直視してしまったのだ。
太陽を遠くがよく見えるレンズ越しに直視したら、視力が奪われるのと同じこと――と言えば、わかりやすいだろうか。
人の身体に大精霊の情報は大きすぎる。ゆえに、何かの間違いで大精霊本体と遭遇してしまった人間の脳は溶け、身体は崩れて千々に散る。
幼いフローラは咄嗟に鋭い悲鳴を上げ、それが彼女を守る人を呼び寄せて、なんとか間に合い、戻ってくることが出来た。
(ああ、でも、今度はもう……)
自分が何にあれほど恐怖していたのか、そのときになってわかった。
フローラにはこの存在を喚ぶ力がある。喚べば彼は、その力で何でも叶えてくれる。今、目の前の脅威を一瞬で消してしまったように。
けれどフローラはそのとき、喚びだした側として彼の姿を見ざるを得ない。彼女の脆弱な身体は、喚びだした存在に耐えられない。彼女の人としての姿はまもなく消え去ってしまうだろう。
既に苦しみを感じないどころかほんのりと幸福感や快感情すら覚え始めているのだ。じきに自分が何を考えているのかもわからなくなるだろう。
(もうすぐ、消えるのだとしても)
薄くなっていく自分の両手を見下ろしてから、ふと大精霊から目をそらし、祭壇上に向ける。
大いなる存在は、助けてほしいという彼女の願いを正確に叶えたようだ。青年の顔から赤い線が消え、うめきながらぴくりと動いた彼はまもなく目を覚ますだろう。見届けた彼女は安堵に息を吐き出した。
できないだらけの役立たずな自分だったが、今回だけは大切な人を守れたではないか。それでこの身が消えるとしても――上出来すぎる。
(――でも。本当は)
ふと、小さな未練が胸をちくりと刺す。
あと一度だけでいいから、触れたかった。
手を握って、大丈夫だよと、自分の身を案じて遠ざけようとした彼に、言ってあげたかった――。
それを最後に、フローラの思考は停止する。
閉じた目の端から、ほろりとひとしずく涙が落ちて――それもまもなく消え去った。




