88 母 4(ミカ)
家に帰り、リビングのソファにつくと、母は自分のクローゼットから何か布に包まれたものを両手で大事そうに持ってきた。
リビングのローテーブルにそれを慎重な手つきで置く。
布で包まれているけれど、置くときの微かな音からすると少し重みがあるもののようだった。
「これは?」
たずねると母は真剣な目で私を見た。
「……あなたのトートバッグの中にあったものなの」
「え!?」
「でも――……とても危ないものだと思ったから……。もしあなたのものなら、あなたから尋ねてくるはずだと思ったの。でもあなたは”これ”のありかを聞かなかった。だから……もし無関係であるなら、もう関わらずにすめばいいと思って、隠してしまっていた」
「どういうこと……」
話しがつかめなくて母を見つめる。
母は少し黙ったあと、そっと細い指先で、その布をはずしていった。
めくられて、あらためてテーブルに置かれたそれ。
「アランの双剣――……」
思わずつぶやいていた。
ローテーブルに置かれ、リビングの照明に照らされて、カーブのついた鞘に納められたそれは、鞘の装飾で煌びやかな光を放っていた。団長の長剣ほどの装飾ではないにしても、その持ち手のところや鞘は細やかな彫り細工がしている。
あぁ、あぁ、あぁ――……っ
声にならない。
ただただ心の中に金の髪が、青碧の瞳が、私を抱き寄せる腕が、あふれる、あふれかえる。
「……あなたの知っているものなのね」
母の言葉に何度も頷く。言葉が出ない。ただ、頷くばかり。
双剣――アランがいつも身につけていた。バリーと戦うときに、両手に持っていた一対の剣の片割れ。
母が息をついた。
「これは……剣よね。私、みつけたとき驚いて、いちど鞘から抜こうとしたら、手入れが行き届いているのか隙間から刃が鋭く光って……悲鳴をあげたわ。どうして美香が……こんなものを持っているのって」
そりゃそうだと思う。
もし私が母の鞄から、この剣が出てきたら驚くだろう。
小ぶりとはいえ、本当の剣――。あきらかにナイフじゃない。包丁でもない。料理用には見えない――つまり。
本来なら警察に届けるべきものだ。
でも母がこうして持っているのは……私が大けがをして倒れていて、何かを察して待ってくれていた。
「あなたを見つけたとき、あまりの怪我で……何に巻き込まれたのだろうと意識が戻るまで心配だった。気があまりに動転してて、私もまわりのことがみえてなかった。あとから、このトートバッグに気付いたの。でも本当にあのときは美香の生死こそが一番心配でね、拾ったもののいつもの美香のバッグだから後で見ようとおもってそのまま家において、また私はずっと病院に戻って付き添ってた。……あなたの意識が戻ってようやく、ほっとしたときにね……そういえば拾ってたわって思い出したのよ。中を見たらこんなものが出てきて……本当に本当に吃驚した。だけど、そのときは、あなたは誰からの質問にもベランダから落ちた、他は忘れたと言っていて……あなたは何かを隠したいのか、それとも本当に怪我をするまでのことも全部忘れたのか、判断できなかった」
母を見ると、疲れた顔をしていた。母は母で、私のことがわからなくてずっと不安だったのだと気付いた。
私と目があうと、それでも母はふっと笑みをうかべた。
それからまた剣に目をおとし、口を開いた。
「――……美香に聞きたかった。たずねたいことはいっぱいだった。だけど……もし、あなたにたずねて、またいなくなってしまったらと思うとね、できなかった」
母の手が震えている。
「……私との暮らしが辛くて……幸せそうだと思っていたけれど、この暮らしがイヤで三日間いなくなったのかもしれないって思ってた。それで何かに事故にまきこまれて怪我だらけで戻ってきたと思うと、追求なんて怖くてできなかったの。……生きてるだけでも、ここにいてくれるだけでも喜ばなきゃって思ったの。……もしあなたが隠したいことがあるなら、私も一緒に隠し通そうって。忘れたなら、忘れたことを受け入れようって」
「……私、知らなくて。その剣がバッグに入ってること……」
私の言葉に母は頷いた。
「途中から、そんな気がしたわ。あなたは剣がバッグに入ってたことを知らないのかもって。……でもね、矛盾してるんだけど、あなたが以前と違う美香な気がして、この剣と関わるような何か怖いことがあなたに起こっている気もして……怖くてね。でもそれを認めたくなくて……今まで言い出せずにいたの」
母はじっと剣を見つめた。
それから私の方へと顔を向けた。
「美香、話してちょうだい」
「……」
「何があっても、お母さんはあなたの味方でいたいから――……話してほしい、何があったかを」
母の眼差しは懇願でもなく、強制的な強いものでもなかった。
ただ、私の閉じてしまった心の扉をそっとノックするみたいに、慎重に丁寧に私を見つめてくれていた。
すでにたくさんの心配をかけ、面倒をかけ、こうして母に日本の日常では無縁だったような実用的な「剣」に触れさせてしまった。隠させてしまった。
私は申し訳なくて――でも、同時に、こうしてそれでも逃げずに私を受け入れようとしてくれる母が――その眼差しが――嬉しくて。
なのに、私はすぐに口を開くことができない。
話したら、本当のことを話したら、どれだけまた心配をかけるだろうか。
頭がおかしいと思われる?
信じてもらえる?
そんな気持ちがぐるぐるしてしまう。
私は膝の上で拳を握って俯いた。おろしていた髪がさらさらと私の周りを覆う。
――どうしよう、どうしよう……
ぎゅうっと拳に力が入ったときだった。
「――美香の髪、昔、バレエでお団子にするために伸ばしはじめたよね」
母の唐突な話題に驚いて、私は顔をあげた。
母の指がそっと私の髪に伸ばされる。指先で優しく梳いてくれる。
「なかなか綺麗に伸ばすの難しかったよね。美香、パパに似て髪が細くて絡まりやすくて、切れ毛になりがちで」
「お母さん?」
話が見えなくて母の表情を探る。
すると、母が苦笑いした。
「……美香にね、なにかものすごく大きなことが起こってるって、お母さん感じてるの。だってね――……美香、髪が綺麗につやつやに長くなってるんだもの」
「髪――?」
「あなたが怪我をして倒れていたとき、救急隊員に運ばれていたときから、たしかに違和感があったの。あれ、なにか、なんだか美香の外見が違うって――。でも、それどころじゃなかったし、病院に運ばれたら、検査や手術でそんな違和感どっかいっちゃってた。退院して最初に髪の毛を乾かすのを手伝ったときにね、わかったの。怪我した美香を見つけたときの違和感はコレだって。髪が――伸びすぎてる。しかも綺麗に、つやつやに――……長い日々を丁寧に手入れされてきたってわかる髪の伸び方」
驚いて母を見た。
母は私をじっと見ている。でもその目は疑うとか私をおかしいと思っている目じゃなくて、心配そうに私のことを見守るような眼差しだった。
「髪の長さに気づいてからあらためてあなたを見ていたら――……病院では気付かなかったけれど、すごく変化していることが分かったの。身のこなし、食事の仕方、好み……小さなこと、一緒に暮らさないとわからないようなレベルのことよ? だけど、以前のあなたと明らかに違うの。いなくなったのは三日間だけのはずなのに――まるで、半年とか一年とかどこかに留学でもしてきたみたいに成長してる、大人っぽくなってると素直に感じたのよ」
母は困った顔をした。それから腕を組み、苦笑を浮かべた。
「こうやって話していても、私自身、何をおかしなこと言ってるんだろうって思ってる。こどもがたった三日会わない間に一年分くらい成長して髪も長くなって帰ってきたように思うなんて……私が頭を打ったのかしらって。でも、この剣のこともある、あなたの怪我のこともある、不思議なことばかりあなたを中心にして起こってるの。ということは、あなたに何か、あなたも口にするのをためらうくらいのことが大きな何かが起こっていて一人で抱え込んでいるのではないかと、心配なのよ」
ひとつひとつ言葉をえらび話してくれる母の声を聞いていると、心が震えてきた。
私、自分が変に思われる心配ばかりして……。
お母さんがどれだけ私のことに気をかけてくれているか、私の変わった部分をどれだけの勇気をもって問いかけてくれたのかってこと、考えたことなかった……。
「……ごめん……お母さん……うまく、うまく話せなくて……」
私はそれでも怖くて手のひらで顔を覆った。
母と眼差しを合わせて離す勇気がでなかった。少しでも正気を疑われたらと思うと怖くて――……
でも、もう抱えこんでいるのも無理だと思った。
「あのね、お母さん――……私……」
アランの剣、あの人の双剣の片割れがきっかけをくれた。
マーリが丁寧に手入れしてくれた髪、その一年半の長い日々が、母と私の心を結んでくれた。
ここにこうして医療を受けて生きていられるのは、母と会えたのは、たぶんリードが帰還の術を行ってくれたから。
何よりも、ずっとアランが全身で私をかばってくれたから、守ってくれたから――ここまで命があった。
――……もう会えないかもしれないけれど。
話すことで、何か変わるわけじゃないかもしれない。
だけど、話したら――母ともしかしたら、分かち合えるものがあるかもしれない。
だって私はフレアで――辛いこともあったけど、それ以上に大切にしてもらって、そして私も大事に思える人たちと出会っていくことができたから――……。
「――……私……私、一年半、別のところにいたんだ――……」
こうして、私は母にフレア国に落ちた日からの出来事を――すべて話したのだった。




