86 母 2(ミカ)
家で少し休んだ後、昼間だけどシャワーを浴びることにする。身体をさっぱりさせたかったのだ。退院前に外科の医師と看護師から、入浴後の傷痕の消毒方法は聞いていた。
「あなたの入浴中、脱衣所で待ってるから、少しでもフラッとしたら声かけるのよ」
心配げな母に頷きつつ、私は支度をして風呂場に入った。
風呂場にうつる自分の傷。
腕、額の端。
肩の痣。
はっきり見たのは初めてだった。
細かな傷は治っているけれど、縫った腕の傷はまだ生々しい。ショックといえばショックだけど、それよりも私の心を占めてしまう疑問。
――この傷は、私は……本当はどこで、怪我したんだろう。
フレア国でのことが生々しく記憶に残っている。
だけど――夢だと言われたら、そうかもしれないと思ってしまうくらいに、今の私はわからなくなっている。
私が狂ってるんだろうか。
変なんだろうか。
だって、フレアのことは、ここに何もない――……。
あれは幻だったの?
「美香?」
シャワー音が聞こえなかったからだろうか、心配げな母の声がした。
「あ、ちょっと、鏡にうつった傷に目を奪われちゃって……。大丈夫」
慌てて返事した。
「そう、なら待ってるけど……。でも、何か異変あったらすぐに呼ぶのよ? 頭を打ったんだから……先生もCTとかでは異変はないけど、日が経ってから眩暈をおこす人もいるって言ってたでしょう……」
「うん、気をつける。ありがと」
シャワーのコックをひねった。傷に直接あたらないように湯をあびていく。
湯がしぶきになって身体にあたる感触。シャワーヘッドを切り替える動作。泡がでるボディソープのポンプを押す仕草。
どれも「懐かしい」「久しぶり」と感じるのに。でも、それは私が――入院していたからだろうか。
わからない――……不安だけが募る。
頭を打ったから……という母の言葉どおり、私は記憶がおかしくなっているんだろうか。
私は自由に動くほうの右手でシャワーの水を受けて自分の顔を濡らす。
それが、水しぶきなのか、自分の目からでたものか、わからなくなるまで濡らした。
*****
シャワーを終えて、インナーを身に着ける。パジャマの上は右側だけ羽織り、途中までボタンをとめて左腕だけ晒した状態で母を呼んだ。
「ごめん、お願いできるかな」
「もちろん」
脱衣所で立っているのは疲れるだろうからと、リビングに移動し丸椅子に座る。母が横に立ち、そっと左腕の縫合痕を消毒してくれる。額の方には塗り薬を薄くぬって、幅広の肌色テープを貼った。
パジャマを着せてくれたあと、母は私の後ろに立ち髪をドライヤーで乾かしはじめた。
「さっぱりしてよかったね」
母はそう言いながら、私の髪に温風をあててゆく。けれどその髪を手で梳いてくれる手がふっと止まった。
ドライヤーの温風の音はそのままに、手の動きだけが止まったのを不審に思い振り返った。
母が私の髪を見つめていて、そのまま振り返った私の顔を見た。
「お母さん?」
目が合うと、母は少しだけ驚いたような、今呼ばれたことに気づいたような顔をした。
「あ、ご、ごめんね。考え事してて手が止まってしまって……」
と取り繕うように言うと、また私の髪を梳きながら風を当て始めた。
「美香、お母さん明日はどうしてもはずせない仕事なの。あなたは日中、どうする? 大学はもう少し自宅療養してから復帰したほうがいいかもしれないし……」
大学と言われてドキッとした。
そうだ、私は大学生だった。もう自分にそういう実感がない。大学生だった時間が短すぎて――実感がわかない。
私が黙ってしまったからだろうか、母がドライヤーの温風を弱めた。
「どうしたの?」
「なんだか、大学生に戻れるのか自信なくて……。少し、ここに慣れるまで、家で過ごしていいかな」
「もちろん」
母は穏やかにそう言うと、またドライヤーの勢いを戻し、私の髪を乾かしはじめた。
互いにぽつぽつと他愛ないこと、母の仕事のこと、私の病院でのことをおしゃべりしているうちに、髪が乾く。
ドライヤーを脱衣所に直しに行った母は、リビングに戻ってくると携帯電話とトートバッグ、ポーチ、いくつかの本を手にしていた。
ソファに移動していた私は、隣に座った母のそれらをのせたひざ元をみた。
「それ……」
私はそこまで言って口をつぐんだ。
そのトートバッグや携帯電話、財布やポーチ、教科書は、私が宝物庫で見つけバッグにつめたものだ。
どうしてここに……。
「……倒れているあなたを見つけたときは気が動転してね、あなたを救急車で運ぶことに必死で気づかなくて。……後から家に着替えを取りに来た時、茂みに落ちてることに気づいたのよ。あなたが……その……落ちた衝撃で手から離れたのかも……しれないわね」
落ちたという表現のとき、母は少し眉をよせこちらを伺うような顔をした。
私はベランダから落ちたと言い張ってきた。その落ちた背景は、説明できなかったから、きっと母はいろんなことを想像したり心配してくれるのかもしれない。
でも、実際、私はフレア王国の宝物庫でこのトートバッグに服やこれらの小物をつめこんだ記憶しかない。しかもそれは夢かもしれない記憶だ。
これがここにふつうにあるっていうことは、私が日本の服をふつうに来て、バッグを肩にかけていたってことで――……。それこそやはりフレアでの記憶がおかしいという気がしてきた。
私は母の視線から逃げるようにして、髪をはらう仕草をした。
「……あまり、記憶がはっきりしなくて……」
「そう。……とにかく……家から出ることはないだろうけれど、家の中でも心配だから、携帯電話は離さずもっていてね」
携帯電話が私の膝におかれた。
おそるおそる右手でそれを持つ。でも、電源を入れようとしたけれど入らなかった。
「あら、充電器につないだから充電されてると思ってたんだけど……。そういえば充電中も点灯してなかったかも……」
「……衝撃で壊れたのかもしれないね。大丈夫、家にいるから」
「そう?」
不安げな母に微笑みを返すと、母は息をついた。
「修理にだすにしても買いなおすにしても、いろいろ手続きあるものね。お母さん仕事お休みのときに一緒に行きましょう。……あ、そうだ、このトートバッグも染み抜きはしたけど全部はとれなくて。ちょっと傷みもあるのよ。もう処分しようか?」
たしかにバッグは枝か何かにひっかかったのか糸がでて染みも淡くのこっている。
外には持っていきづらいくたびれ具合だ。
でも、処分といわれると受け入れられなかった。あのフレアに残されていたものと思うと、手放し難い。
「傷みはあるけど、お気に入りだったから、もうすこし置いておきたい」
「そう?」
「うん」
母は少し黙ってから、他のポーチや本を見せた。
「中身、他はこれで全部よね、美香?」
確認するように問われ、頷く。
「たぶん……」
私の記憶では宝物庫で急いでトートバッグに詰めた。だからあまり中身がどうだったか聞かれても確証がもてなかった。けれど、母は真剣な顔で私を見ていた。他にも落としているかもしれないと気遣っているのかもしれない。
私は安心させたくて微笑んでいった。
「たぶん、これでいいと思うよ」
私があらためてそういうと、母はほうっと息をついた。
心底安心するように。
その安堵の息が胸に響いて、どれだけ私は母のことを心配させているのだろうと思った。
「なんかいろいろごめんなさい……心配かけて」
「何言ってるの……!」
母は私の謝罪に眉をさげると、ポンポンポンと私の膝を軽くはたいた。
そうして家で過ごしはじめたものの、どこか私の中でぎこちなさがとれなかった。
それは母にも伝わっているようだった。
ふいに不思議そうな顔で指摘され、自分の行動にはっとした。
「美香、あまり前はロングスカートはかったのに、そればかり選ぶのね」
「美香、お箸つかっていいのよ?」
「あまりテレビをつけなくなったのね」
些細なことといえばささいなことだった。
でも膝から下、足をさらすのに抵抗感がある。
食器棚から無意識に選ぶのがお箸じゃなくてナイフとフォークになっている。
夜は静かな方がいい――。テレビ画面のスピード感のある会話や映像に気持ちがついていかない。
どうして――……と深く、それを自分のなかで問えば、答えはあった。
フレアでのドレス姿での毎日、食事の仕方、電気のない生活――……。
でもその答えを認めようがない。私の記憶と心だけにしか答えがなくて。
私は母の不思議そうな顔をされるたびに、何気ない問いのたびに、
「……ん……。怪我する前までのこと、よく覚えてなくて……」
と言い訳のように答えるようになっていった。
母はそのたびに痛ましげな顔をする。
それは申し訳ないけれど、そんな返事しかできないのだから仕方なかった。
日が経つにつれて、私の変化に心配そうな顔をする母の顔を見るのが苦しくなった。同時に心配してくれる気持ちを素直に受け取れない自分にもイライラした。
すこしずつ母と私の会話にぎごちなさや、よそよそしさが混じってくるのがわかった。
母が心配してくれるのもわかるけれど、母が私の変化を指摘するたびに、私は自分のことがわからなくなる。
フレアでの自分が――夢なのか現実なのか、わからなくなるのだ。
変化した自分、それはフレアの記憶が残っている自分。
だけど、実際の日数は「そんなことがあり得ない時間」だ。身体がフレアのことを染みつくには、二日じゃあまりに短すぎる。
そもそも、もし魔力があって魔術があって、私に帰還の術が施されて――時間が歪んで二日後に帰還したのだとしても。
それがたとえ現実に私の身に起こったことだったとしても、この日本では「現実」の扱いにならない。
つまり「夢」にしかすぎないってことじゃないの?
――だって、私はここに戻された。アランには会えない。もう、会えない。
すべて夢だったということじゃないの――……。
そんな喪失感が襲ってくる。
だから、自分が変化したと、思い出させられるのも嫌になっていた。
私は、あまり考える時間が欲しくなくて、片手でできる料理に熱中したり、しつこく細かな部分を掃除したり、傷が痛むときには、横になってできる本や漫画を読んだり、映画の動画を観たり……ととにかく今のことを忘れて他に没頭できることばかり探すようになった。
でも、あいまあいまに母との会話で現実に引き戻される。
とうとう何度目かの母の「美香、前はこの味が好きだったのに……」という言葉を言われた日。
私はとうとう強く言い返してしまった。
「前の私なんてもうわからないのっ。もうかき乱さないで!」
しまったと思った。
でも放った言葉を取り返すことはできない。
目を見開いて、ただただ衝撃を受けているような母の顔、その表情が悲しそうな辛そうな顔に変化するのを目の当たりにした。
「……そんな、つもりじゃ……」
母はそう呟いた。
でも、それ以上は何も言わず、俯き加減で食事を再開しはじめた。私はあやまるタイミングを逃し、またごはんを口に運んだ。
お茶碗くらいは持てるようになっていたはずの左腕が、ずきずき痛んだ。
退院してから10日後の、初めての通院の日のこと。
母と私は日常会話はするけれど、互いに距離感を疑うような、よそよそしさが漂う感じのままだったけれど、母はきちんと私の通院に付き添ってくれた。
心配かけている。
仕事の都合もつけさせて……面倒をかけてしまっている。
そんな申し訳なさや、付き添ってくれることの心強さや、安心感への感謝、いっぱいいろんな気持ちがある。
けれど、やはり母が私のことを伺うような表情で見るたびに、私の行動に「えっ?」と言葉にはしないけれども今までとは違うことに驚いた感じをみせるたびに、私の神経は逆なでられた。
グラグラと気持ちが揺れる。
「あぁ、まだ休学しているんですね。そろそろ通学を再開してもよいかもしれませんよ。家にずっといても気がふさぐでしょう」
私の腕の傷の予後も良く、頭を打った後遺症も大きくないのを確認してか、医師はそんな風に明るく言った。
「……はい」
私は頷くものの、大学に通学する自分がうまくつかめない。
――フレアに落ちる前、私、どうしてたんだろう……。
私は正直、大学でできはじめた顔見知りや友人の記憶は一年半前のものでかなり薄れてしまっていて、名前はわかっても会話とかも思い出しにくい。
講義のこともそうだ、大学のことも――……微かな遠い記憶になっている。
でも、ここの世界では、私がいなくなったのは一か月半ほど前のことなのだ。
「次の診察は二週間後で良いですよ。予約は外の受付でお願いします」
「はい。ありがとうございました」
付き添ってくれていた母と礼をして、診察室をでる。
杖をついた人、包帯を巻いた人、三角巾をした人……さまざまな人が待合の長椅子に座っている。
入院中らしき人が点滴スタンドをもって院内売店にむかっている。
看護師さんが数名通り過ぎ、相談スタッフさんが椅子に座る老婦人の横に屈んで目線を合わせて話しを聞いている。
たくさんの人が生きていて、時間を過ごしていて、それぞれの痛みや辛さをもって、病院にいる。時々テレビにむかって笑ってたり、こどもに微笑みを向けている人もいる。
日本の大きな病院の広くてきれいな待合の風景の中で、私はぽつんと、置いておかれているような気持ちになった。
痛くて辛い人が集まる病院で、その廊下で、私も怪我をして運ばれているはずなのに、さらに、私はここに仲間入りできないような――疎外感――……ちがう、そうじゃなくて。
――ここじゃない。
そんな風に思う、気持ち。
そう、ここじゃないの――私がいたいのは。
「美香?」
不安げに揺れた声が私を呼んだ。
振り返ると、母の眼差し。こちらを伺うような――「私」を疑うような。
「……お母さん」
「行きましょう? ここに立っていても、邪魔になるし……ね?」
廊下に立ちすくんだ私を、母はさりげなく誘導する。
だけど、私はそれすらも苦しくなっていた。
―――フレアのことを忘れたら、苦しくなくなるんだろうか。
―――事故のせいにして、怪我のせいにして、忘れたことにして――生きていったらいいのかな。
「美香、帰りに大学に寄っていく?」
「なんで……」
「また復学するなら書類とかもあるでしょう……。それに、図書館も近いから、また次に読む本を借りれるんじゃないかしら。家にあるもの読みつくしちゃったでしょう」
さっきの医師の言葉になにも言わなかったけれど、母も通学を再開して欲しいのだと感じた。
普通に戻ってほしいのだと。
家にある本を読みつくしてしまっている子どもじゃなく、ふつうの大学生に。
「――うん、そうだね――……」
どこかで母の言葉に反発するのに、自分の心の底にある気持ちと違うのに感じるのに、でも医師や母の言葉は正しいものの気がして、ここで生きていくには正解な気がして、私は頷いた。
「手続きしないとね」
そう答えた。
けれど、このとき大学に、図書館に寄ったことで、私の気持ちの方向が変わったのだった。




