55 岐路 (アラン)
アラン視点です。
一番に怒りを感じているのは、自分自身に対してだった。
胸を占めるのは、美香を守るといいながら、それが実行できていない自分への、苛立ちだ。
私に秘して美香をソーネット伯爵邸に連れ出し、危険を伴うリードの審問を受けさせた殿下と兄に対する怒りもたしかにある。けれど、それは結局のところ、彼らがそれぞれの立場で何を最優先させたかの結果なのだ。
ならば、私は……何を優先してきたのか。
扉の向こうで少しずつこちらに近づきつつある気配をとらえながら、私は扉を見つめる。
あまり時間はない。美香の気持ちを確かめなければならなかった。
「美香」
呼びかけると、腕の中で美香が顔をあげた。小さな蝋燭に揺れる彼女の黒い双眸をのぞきこむ。
「美香は、ここから出たいですか?」
「このお屋敷から出るってこと?」
戸惑う声に、私は声を押さえて告げる。
「今後一切、ディールや殿下や魔術と関わらないですむような暮らしを望むなら、今ならば叶えられるかもしれない」
美香が目を見開き、息をのむ。
けれど私の言葉に飛びつきはせず、口を引き結んだまま私の真意を問うかのように見つめて来た。今この時に私がこんな問いかけをしていることについて、きっといろいろ考えているんだろう。
本当はもっと時間をとって、大切に美香にたずねたかった。美香の望みを聞きたかった。
けれど、時間はない。
「美香はどうしたいですか」
たずねると、美香はふぅっと息をついた。
その苦笑いみたいな、すべてをのみこむかのうなあきらめに似た息遣い。
それだけで、次の言葉がわかるような気がした。
「ここを離れて暮らしてはいけないよ。私、王都すらまともに出たこともないもの」
予想通りの返事。私は彼女の背中をそっと撫でた。
そうして、もう一度問う。できるだけ穏やかに。美香が望みを口にできるようにと願って。
「そうですね。外は未知で不安かもしれませんが……それでも、美香、私と二人でフレアから出てみたいと思いませんか」
「え?」
「……誰も、あなたのことも私のことも知らない場所で、一から始めてみたいとは思いませんか。暮らしは今より貧しくなり不自由さはあるかもしれない。けれど、異世界から来たということはだれも知らない、そんな辺境の地へ行きませんか」
誘うように口にすると、美香は思いもよらなかったことを聞いたというように数度瞬いた。
「それって、田舎とか辺境へ逃げるとかそういうこと?」
「そうですね。王都からはずっと遠くにはなるでしょう」
「ちょっと待ってっ! それじゃアランはどうなるの? 今の地位とか家名とか手放すってこと?」
肯定も否定もせず、私はただ美香の背をもう一度撫でた。
「このままここにいれば、数日後には私たちの婚約披露の夜会が行われ、いずれ結婚となります。そうなると、完全に私たちの姿は公けになる。国内だけでなく、国外に向けても。そうなれば、今以上に私も美香も民の目から隠れることも難しい」
「……」
「そうなれば、完全にこの王都で暮らし続け、常に王や殿下に従いつづけなければならないでしょう。今日のような突発的な出来事でも、屈辱的でも、理不尽な疑いであっても、従わねばならなくなる」
「でも、隠れて暮らすなんて……。まさか、だから、そのサムの姿なの? 私を連れて逃げるために?」
私のマントをぎゅっと握って美香の問いに、私は「ここに来るためにも変装が必要だったんですよ」と軽く言った。
けれど、美香はそれだけではないということを承知していたのだろう。
「美香、どうしたいですか。準備は出来ています」
「アラン! どうして? 今まではそんなこと言わなかったのに!」
「……私が近衛騎士である限り、あなたを守ろうとしても綻びがうまれることがよくわかったのです。私が騎士として仕えている存在……このフレアの国こそが、美香を縛っているのだから」
美香が首を激しく横に振った。
「……私、ここにいる。”近衛騎士団長”と婚約すること、私、受け入れてるもの!」
「本当に?」
「騎士見習い寮であいさつだってちゃんとしたでしょう! このままここにいて、婚約披露して、アランと結婚する……決めてるもの」
「……でも、それはうぬぼれてるみたいですが、”私”と一緒に生きたいと思ってるってことでしょう?」
びくっと美香が肩を揺らした。
「今日のように、周囲からの圧力に翻弄されたいとは思ってないでしょう?」
「……」
「美香。私は、あなたを守りたい。とはいえ、あなたの祖国に帰してあげる術はない。私は魔力をほんのかけらも持っていないし、聖魔術について扱い方も知らない。けれど、魔力がないおかげで、私は魔術師からの魔力をたどる追跡を逃れ、目くらまして市井にまぎれこむことはできるのです。時間稼ぎであるにせよ、美香を連れて逃げることは可能です。まだ、あなたの顔が知られきっていない今ならば」
皮肉にも、逃げる算段ができるのは、セレン殿下とずっと隠密行動も共にしてきたおかげだった。このサムの姿も、殿下と入れ替わるために私も変装することができるようになっている。そうやって、公けに和平の殿下としてのセレン殿下と近衛騎士としての活動と、市井にまぎれ、民の声を聴く活動を平行してきたのだ。
けれどフレアにとって「和平の殿下」は、フレアを守るために存在する。そしてそのフレア王国は、美香を利用はすれど、根本的に守りはしない。
「美香。あなたが、近衛騎士団長アラン・ソーネットではなく、ただの”私”という男と共に生きたいと思ってくれているなら……行きませんか」
「騎士団長のアランはどうなるの!?」
「私が仕えてきたものは、あなたを守らない。……ならば、私は、たった一つを選ぶだけです」
……一つ。それは、美香を。
美香は私の胸にぐっと額を押し付けた。
「……だめ」
「美香」
「絶対だめ、騎士じゃなくなるなんてダメ。あんなに、あんなに信頼されていたのに! あのロイとかユージンとかたくさんの騎士や騎士見習いの憧れのまなざしを捨て去るの? 黒目黒髪のどこから来たのかわかんないような噂だけの”姫君”と行方をくらまして、なんの得がアランにあるっていうの? それに騎士じゃなくなったアランなんて、想像できないよ。ずっと小さなころから騎士を目指して生きてきたんでしょう……お母さまと騎士になるって約束して……」
「えぇ。でも、いいんです」
「……フ、フレアはよそ者に敏感だし、人の出入りに厳しいって、ディールから聞いたものっ。逃げるなんて、簡単にいかないでしょ? アランがそれを知らないわけないのに、そんなわざわざ災いに飛び込むなんて」
「まぁ簡単ではないのですが、どんなところでも裏のやりとりっていうものはあるものです。幸か不幸か殿下のおかげで、そういう辺境の村とどう付き合うかについては詳しくなりましたからね。和平というのは、理想だけではないので、私たちが息をひそめて暮らせるくらいの金銭のやりとりは準備できている」
「何よそれ!」
「……だから、美香、行きましょう? もう……ここは、辛いのでしょう?」
落ちて来た美香を受け止めた。
当然のように、拾った少女の存在を、保護した。
保護……けれど、それは檻のようなもの。
けれど、私は守ったつもりでいた。
じょじょに行動範囲をひろげて、自由にさせてあげてるつもりでいた。守っているつもりでいた。
……傲慢だった。
殿下や兄が守るフレアという国を、私は剣で守っているのだと思ってきた。
和平をすすめる現王や殿下の政治を正しいと思ってきたし、たしかに国家的に平和を築いてはいるんだろう。
――けれど、美香のような”持たざる者”はだれが守るんだろう?
国を守る騎士はたくさんいる。殿下を守る騎士も、兄のような貴族を守る私兵も雇うことができる。
魔術師がいて、フレアという国の行く末を考える人は国内にたくさんいることだろう。
けれど、美香というたった一人の少女の心と意志と身体を守る人はどこにいるんだろう。
辛いときにそばにいて、微笑みを守ることができるのは誰なんだろう?
私はたしかに守りたいと思ってきた。
けれど、何も失うことなくして、守れると思うのは、ただの傲慢さでしかなかったのではないか。
廊下の向こうの気配がすぐそこまで来ていた。
すぐに扉が開け放たれるだろう――……。
そのまえに、美香の望みを聞きたい。
その望みを、私は守りたい、叶えたいと思う。
「美香、行きませんか?」
腕の中の愛しい人に声をかける。
ここから窓から逃げるのも、扉をあけて敵中突破するのも、算段はできている。勝機がない賭けをしているわけではない――だから。
だから。
美香が願うならば。
その時だった。
美香がぐぅっと私のマントを引っ張った。胸に押し付ける額をいっそう胸にすりつけるようにしてきた。
「……ない」
「え?」
くぐもった、小さな声に、思わず問い返す。
「……行かない」
今にも泣きだしそうな震えた声が耳を打つ。
そして、その小さな声と同時に、部屋の扉が勢いよく開かれたのだった。




