51 目覚め 1 (ミカ)
ミカ視点。
『ミカのなまえはなぁ、うつくしいかおり、ってかくんだぞ』
……うつくしいかおり。
『あらあなた、まだミカはやっとひらがなをおぼえたばかりですよ』
『いいんだよ、じぶんのなまえのいみをおぼえるのはだいじなことだ。なぁ、みか、パパがママにけっこんしてくれとたのんだときも、このバラのはなたばをおくったんだぞ?』
『なつかしいですねぇ』
『みかのなまえの「うつくしいかおり」は、バラのかおりなんだ』
パパのなつかしい声、母の明るい笑い声。それと共に感じるのはバラの香り。
お菓子の甘い匂いとは違う、うっとりと目をつぶって浸っていたくなるような、花の香りの甘さ。
混じって消えて、混じって消えて、私は手を伸ばす。
おいていかないで……
けれど伸ばした手は空をかくだけ。
胸がぽっかりあいたようなむなしさと寂しさがひろがり、鮮やかだったバラの花びらがふいに灰色となる。
灰色と青が渦のようになり、そこに黒いシミが混じり、濁ってゆく。
寂しい。
もういやだ。
悲しい。
ひとりぼっち。
だあれもいない。
本当は、本当は帰るところなんて……もうどこにもないかもしれない……
考えたくない。
ここはどこか、知りたくない。
だあれもいない。
だあれも……
ぽつり。
濁って、花の香りも消え失せた世界になにか、淡い色のしずくが……落ちてきた。
見上げる。
光はない。けれど、なにかがある。
ふわり。
落ちてきた色が、濁った色を避けるようにして、広がった。
それは、夕暮れの空、淡いオレンジ色に染まる空の色。
瞬きしているまに、両親とは違う、懐かしい声がした。
『美しい香り……ミカ。……美香』
私の指が虚空に、文字を書く。
美香、私の名前。
私が、説明している。自分の名前を話している。そんな私を、金色の髪をなびかせて、青碧の瞳で受け止めてくれる人がいる。
ふぅっとまた、花の香りが匂いたちはじめる。
夕暮れの丘、そこにはバラはないはずなのに。
記憶が混じり、懐かしさと愛しさとやさしさと穏やかさがくるくるとまわらいながら私の中に入ってくる。
鼻腔を満たす、バラの香り……。
ねぇ、名前を呼んで。
私を見つけて。
私を助けて――……
「目覚めましたね」
――私の世界がまた灰色になった。
一気に力が抜け、目を開けるのが億劫になる。
この声、聞きたくない。目を開きたくない。瞼をあげてしまえば、きっと目に映るのは、この声の持ち主。
白銀の髪と青い瞳、そして黒い眼帯に違いないのだから――……。
もういや、夢を見ていたい。
ここはいや。
もう……こじあけられたくない。
背中を丸めて、縮こまろうとした。
その時気づいた。
私、何かにくるまれている……ベッドのようなところに寝かされて、布団にくるまっている?
それは、なんだかおかしい。だって私、さっきまで。さっきまで……?
記憶はあいまいだ。だけど、なんとなく庭にいた気がする。そう。庭。
アランの館じゃなくて……そうだディール様の館の中庭にいたんだ!
なのに、ここは明らかに中庭のベンチの感触じゃない。
ざわざわと全身鳥肌がたつ。さっきの自分のなかに侵入してくる何かを思い出して、私はもっとぎゅっと目をつぶった。
いやだ、いやだ、いやだ。いったいここはどこで、何が起こって、これから何が起こるのか知りたくない。
布団を握って息を吸い込むと、スッとバラの香りの中に、ミントみたいな薬草みたいな香りを感じる。さらにあの銀髪と黒の眼帯の向こうの眼を思い出してぞっとした。
いやだ! ますます背をまるめて、布団にくるまろうとした。
そのとき。
ふいに、背中を撫でられた気がした。
現実じゃなくて、頭の中の私のまるまった背筋を、ちゃんと伸ばすようにって指導するみたいに撫でられた気がした。
でもそれは、気持ち悪い触れ方じゃなくって、私の背中をとんとんと正してくれるような触れ方。
記憶が記憶に触れるみたいにして、それは一瞬で消えてゆく。
同時にひっつめ髪の先生の凛とした声が、あたまの中に響いた。
『ほら、背筋を伸ばす。あなたの長所でしょう! それを生かしなさい。相手のステップにのみこまれない!』
『出遅れてますよ。手は添えて、身体を寄り添わせて踊っていたとしても、ぶらさがってはいけないのです! ちゃんと自分で立ちなさい』
記憶が横切って、ふくらはぎが痛んだ。筋肉痛まで思い出した。
『あなたは私の弟子なのですよ。しっかりなさい』
一瞬、ピリリとした空気になった。けれどもそれが、ふっと緩んだ。頭の中、映像が流れるようにしてひっつめにした白髪の下のまなざしがやわらいだ。
『……あなた自身が、一人の人として、姿勢を保って……この世を踊り抜けられますように』
私は布団をぎゅっと握った。
先生……。
私、踊り抜けられるの?
疑問形で思ったら、記憶の中の先生が「あいまいではいけません。自ら踊り抜けるのです!」と叱った声がした。
『あなたは私の弟子なのですよ。しっかりなさい』
もう一度声が聞こえた気がして、丸めていた背をごそごそと伸ばす。
記憶? 感情?
リード様……リードが何に触れたのかわからない。でも、とにかく、私の中を暴かれたような感覚だけはっきり残ってる。
くやしい。
くやしいよ。
大切な思い出、記憶、それが無理やりに引きずり出されたみたいな感じだ。すごく気持ち悪くて受け入れがたい感覚。
日本でのこと、フレアでのこと。アランとのこと。
私が揺れて、悩んで、取り繕って、心の内にためていた怒りとか悲しみも含めて、覗かれた気がする。内部を全部ずるりと未知のもので侵され触れられたみたいだ。
なんで他人にそんなの知られなきゃなんないの!
どうして!
理不尽だ。かなしい。そして、怖い。
でも……ここで丸まってたら、きっと相手の思うツボ。踊らされて踊らされて朽ち果ててしまうんだ。
いやだ。
私は私のものだ。
アランもきっとはめられた。アランが信頼して仕えていた、あの”殿下とディール”に。
殿下とディールはもしかしたらアランを守るために、こうして私に干渉してきたのかもしれないけれど。
その思惑があったとしても、アランの知らないうちに館を暴いてるのには変わらない。
王子だから? 貴族の兄だから?
こうやってこれからも、ずっとずっと、私は流されて、私がいるからアランも流されて……いいように扱われて生きていかなきゃならないの?
そうしなきゃ、この国で生きていけないということなの?
目を閉じていたい……だけど、逃げていられないくらいの怒りがわいてきた。
瞼を上げて、すべて見てやるって強い気持ち。
私はぐっと目を開いた。視界に銀のきらめきが入る。
見下ろすようにしてこちらをみてくる顔が視界に入った。予想通りの、黒の眼帯が施された端正な顔。片方だけの青の冷たい瞳――リード。
思わず顔をしかめてしまった。
「気分は?」
私のしかめっつらは見えているだろうに無表情のままそう聞かれた。私は鼻で笑ってしまった。
気分は最悪だけど、返事をする気など起きない。
問いかけに応えなければならないと思っていたのは、自分を守って生き抜きたかった頃の話だ。こちらに落ちてきた当初は、従順でいれば助けてもらえると思っていたから、なんでも質問に答えていた。
さぞかし、こちらの人間にとっては滑稽で都合のよい人に映ったことだろう。
「マーリは?」
逆に私は問いかけた。自分の冷えた声が心地いいくらいだ。
リードは私の問いに少し首をかたむけた。
「メイド長と数日後の夜会の段取り中です。あなたがここにいることは知りません。何が起こったのかも」
やっぱり、ディールが中庭に誘ったときに、使用人が話しかけてきたのはマーリと引き離すためにわざとしたことなんだ。
身を少し起こして見渡せば、今私はふかふかのベッドに寝かされていた。室内の調度品やベッドの豪華さから考えて、ディールのお屋敷の客室と見当をつける。
窓の向こうは、まだ明るいようだけれど、窓の影からすると夕方間近なのかもしれない。
もう一度部屋を見渡してみるけれど、部屋には私の枕元に立つリードだけで、控えている使用人もいないようだった。まぁ天井裏とかには監視者がいるのかもしれないし、魔術による結界が張られているのかもしれないけれど。
苦々しい気持ちのままいちど深呼吸する。
すると、濃いバラの匂いに気付いた。
リードの横には、みずみずしい薄いピンクのバラが花瓶に飾られていた。
……アランの館のバラは、もう花をつけていないのに。
一瞬そう思ったとき、リードがバラの葉にそっと指を添えた。
「アラン・ソーネット団長の館にはない品種です。遅咲きが特徴ですね」
私の思考を読まれたみたいな言葉が気持ちわるく感じた。先ほど私の手首をつかんで何かを暴いてきた……あの行為によって私の思考が把握されてるんだろうか。
無表情のリードからは何も読み取れない。
「さっきのあれで、私の魔力の出どころはわかったわけ?」
リードは沈黙のままだ。答える気がないんだろう。
その静まり返った部屋に、遠くから足音が響いてきた。
リードがさらりと銀髪を揺らしドアの方へと近づく。
その背を見送っていると、彼は私の方を振り返った。冴え冴えとした青い瞳が私を見つめてきて、私は何か言われるのかと身構えた。
「……兄は、あなたに剣を向けはしない」
ぽつりとつぶやかれたのはそんな言葉。
兄……?
彼の言葉から、二人の人間が思い浮かぶ。
ちょうどそのとき、言葉と重なるようにして、ノックが響いた。
「ミカの様子はどうだ? そろそろ目覚めたか?」
案の定、聞こえてきたのはディールの声。リードがあけた扉から、部屋にはいってくる。
「そろそろマーリがミカが伏せっていると聞きつけてここに来る、リードは戻って休め。……あぁ、ミカ。顔色は悪くないね」
部屋を出ていくリードと入れ替わるようにして姿を見せたディールは、忌々しいほどに整った笑みを私に向けた。
拒絶感で頬が強張る。
そんな私に気付いているだろうに、ディールはいつもの通りの声で話しかけてきた。
「もう少し休んでいるといい」
「……私の魔力の出どころはわかったの?」
低い声でたずねた。リードは答えなかったけれど、ディールは肩をかるく上げて「もちろん」といった。
「ミカの協力のおかげだな」
「……」
「ミカが他国からの間者ではないことははっきりしたから、安心していい。ただ、あの者がミカに魔力を流しこんだ意図がはっきりするには、数日はかかるかもしれない。すぐに口を割ってくれると早くすむんだが……」
「あの者って!?」
思わず聞き返すと、ディールは浅く笑った。
「ミカは、本当に気づいていなかったんだな。少しも変だと思わなかったんだ? よく話していたようだが」
「話して……?」
「キースだよ」
「え?」
「リードはミカに流れる微かな魔力をたどった。その波動が、アランの館のバラの庭師、キースと一致した」
キース?
懐かしい黒眼黒髪。眼で追っていたし、古語が通じるからたしかによく話はしていたけど。その彼が私に魔力を流した?
「キースが、なぜ……」
「さぁ? 理由はこれからだ。キースは男だから、聖殿の魔術師たちも審問をいやがらないだろうし、細かいことは数日たてばわかるだろう。だが、今後キースのことでは、ミカの協力を必要とすることになるだろうな」
意味がわからずディールの顔を見返すと、ディールは肩をすくめた。
「キースもまた、ミカと同じ……”異世界”から来たらしい」




