26 執事の入れ知恵 (アラン)
アラン視点です。
夕食後、自室で日課にしている剣の手入れをしていると、ノックの音が響いた。
扉を開けると、執事グールドが立っている。
「何かありましたか?」
私がたずねると、グールドは少し眉を上げて、
「お帰りになられた折、ミカ様とお取り込みのご様子で、今日の報告と明日の予定の確認ができませんでしたので…」
と少し言葉を濁して答えた。
グールドの言葉に、私は一瞬息をのむ。
「…ミカのことで、失念していました…。手間をかけてしまいましたね」
私はあやまりつつ、グールドを部屋の中に入れる。
いつもなら、王城から館に戻り次第、グールドから今日の館全般の報告や事務連絡をかわすようにしていた。
それが今日は、帰宅した直後に美香とキースのならぶ姿に心乱れてしまい…挨拶もそこそこに、美香の手を握ったままグールドの前を通り過ぎてしまったのだった。
剣の手入れをしながら、グールドと事務的なやりとりを済ませる。
特別、館内では大きな出来事はなかったらしく、端的にグールドからの報告は済んだ。
すると、いつもなら仕事が終えるとさっと退室するグールドが、珍しく笑みを浮かべた。
「なに…か?」
私は、グールドの笑みが気になりたずねた。
「アラン様、唇が少し傷ついてますな」
「……」
私は自分の下唇に指で少し触れる。
ピリッとした小さな痛みがはしる。
美香とのやりとりの最中……つい唇を噛んでしまった名残り。
「懐かしいですな。昔は、よく唇を噛んでは、傷をつくっておいででした」
グールドの言葉に、私はちょっと恥ずかしくなる。
「……これは、久しぶりだ」
私が目線をそらして少しぶっきらぼうに言うと、グールドはふふっと笑った。
「昔のように軟膏を用意しましょうか?」
「…いらぬ」
強めに返事した私の言葉に、グールドは少し目を細める。
幼いころの私が、くやしい時や哀しい時に唇を噛んで傷を作っていたことを知っているグールドを前に、私はいたたまれなくなって、剣の手入れをしていた道具の片付けに入った。
こどもの頃には、唇を噛んで切ってしまった私によくグールドは唇用の軟膏を塗ってくれたものだった。特に母が亡くなってからは、意識しないうちに唇を強く噛みしめて腫らしてしまうことが多く、世話をかけてしまった。
騎士見習いになり、正式に騎士団寮に入寮して先輩騎士についていくのに必死になっているうちに、いつのまにかなくなっていた癖だったはずだが…。
剣の傷にくらべれば、痛いのうちにすら入らない唇の傷が、妙にピリピリと感じるのは、傷そのものよりも、傷を作るような心の弱さに自分自身が腹を立てているからだと思う。
黙々と片付けをしている私に、グールドは静かに声をかけてきた。
「昨日の外出には、ディール様やリード様やそのご学友が途中からご一緒なさったとか…」
グールドの言葉に、私は片づけていた手を止めた。
「……そういえば昔は『グールドの耳は地獄耳』と呼んでいたか…」
ため息をつきつつ、そうこぼすと、
「おぉ、その言葉も久しぶりですな。懐かしい」
と、グールドは楽しそうに答えた。
おそらく昨日の馬車の御者あたりにでも聞いたのだろうが、今ここでそれをたずねられるのは、気持ちが落ちつかなかった。
「……それが、なにか?」
私がもうその話しは終わりたいという素振りを見せてグールドに尋ねると、グールドは何食わぬ顔で言葉をつづけてきた。
「アランさまにとっては、心地良いとはいえない外出だったかもしれませんな…。もし外で二人でいるのが難しいのであれば、館の中でもう少し語り合う時間を作ればよろしいのです」
「……グールド、何を言い出すかと思えば…」
私は、今日何度めになるかわからぬため息をついた。
だが、グールドはめずらしく私の前から引かず、こちらを見て言った。
「……ウィリアム様とソフィア様もそうなさっていました」
「……」
「アラン様…夫婦とはすれ違いやすいのだそうです。私は妻帯しておりませんので、わかりませんが……。ただ、アラン様のお父上であるウィリアム様とソフィア様は貴族様の政略的結婚でもありましたから、最初は本当にお互いが意識して歩み寄るように時間をとっていらっしゃいました。城下の伯爵邸にいらっしゃる頃からです」
初めて聞く話に、私はあらためてグールドの瞳を見返した。
そこには、慈しむような昔を思い出すような、深い眼差しがあった。
「特に多忙であるウィリアム様はこちらの館にうつられてからも、奥方の部屋でのひとときだけでなく、居間でのお茶の時間、花の美しい時期は庭を散歩される時間、テラスでの語らいの時間を一日の予定のなかあらかじめきちんと組み込んでいらっしゃいました」
父と母は、仲の良い夫婦だと思っていた。
それはあまりに自然なことだったので、父と母が心を向けて培ってきたものだと考えたことがなかった。
「ウィリアム様とソフィア様の愛情は、出会いは政略的結婚だったとしても、その後に時間をつくりお互いを知り合い、慈しみをもって育ててゆかれたものなのです。アラン様とミカ様も婚約し、このまま順調に過ごしていけば、ご結婚となります。そして晴れて夫婦とおなりでしょう、しかし、真のご夫婦として絆は、婚儀をすましたかどうかで出来上がるものではございません」
グールドの言葉に私は黙った。
そして、昨日も兄ディールに言われた言葉を思い出す。
『……おまえは、状況としては妻としてミカを手に入れられるかもしれないけれど、その『心』をも真に望むならば、もっと視野を広げねばならないし、深く見据えなければならないだろうね。私や殿下を欺けるくらいにね』
「状況として妻を手に入れる」だけでは、私だって苦しい。
美香と気持ちを通じあえたらと思う。
だが、うまくいかないのだ。
寄りそえあえたかと思えば、一瞬にして遠くなる気がする。
離れたかと思えば、ときどき近づいたようで…うまく掴めない。
美香の気持ちや、心がどこにあるのか、見えない。
グールドの言葉も、そして昨日の兄の言葉も的を射ていて…心が痛い。
「……グールド、もう良い、下がりなさい」
と、伝えた。
私は剣の手入れの道具をしまい終えて、グールドの方を向く。
「今日は、私もこどものような態度をとってしまいました。明日からは忘れないように気をつけましょう。そして、今、話してくれた父と母の姿も…私がそれにならえるように」
私はそう伝えたが、グールドは退室する素振りを見せなかった。
そして彼にはめずらしく、さらに口を開いた。
「アラン様、ミカさまはどうも良く眠れぬご様子だとマーリが申しておりました」
「眠れぬ?」
予想していなかったグールドの言葉に、思わず聞き返すと、グールドは頷いた。
「ミカ様が寝つきが良くなるようなあたたかい飲み物をお求めになったと、こちらの部屋に向かっている途中にマーリから聞きました。今、マーリが用意しているはずです」
そう言うと、グールドは懐の時計を取り出し確認し、
「マーリはミカ様に蜂蜜入りの温めたミルクを用意すると言っておりましたから……。そうですなぁ、今、ちょうど出来上がりミカ様のもとへ届ける頃でしょうか」
と、呟いて私の目を見た。
そして続ける。
「今日は空が澄んで星がよく見えますし、部屋にこもるよりもテラスであたたかな飲み物を飲む方が、涼しい風に吹かれて気持ち良いことでしょうな」
「グールド、それは私に彼女のもとにいけと……?」
私が戸惑ってたずねると、グールドは「さあ?」と気のない返事をした。
そして、
「では、アラン様のお望みどおり私は退出いたしますゆえ……」
とだけ言って一礼し、さっと物音ひとつたてずにグールドは部屋から出て行ってしまったのだった。
「……つっ」
私ははっと唇を押さえる。
気付かぬうちにまた噛みしめていたようで、かるい痛みが唇に広がる。
私がそばにいって、美香はその眠れぬ心うちを話してくれるのだろうか……。
邪魔になりはしないのか?
不安が広がった。
彼女は、昨日、夕暮れの丘にむかう馬車の中で泣いたときでさえ、その涙の理由を話さなかった。
その涙の裏にことばにならないくらい気持ちが揺れることも、我慢してきたこともあるのだろうと思う反面、悩みや苦しみを打ち明けてもらえるほど信頼されていないのではないかという不安もあるのだった。
私はグールドの後を追えず、立ち尽くしてしまった。
だが、扉の向こうにマーリの微かな気配が通り過ぎてゆくのを感じた瞬間、私は、扉を開けて……廊下に飛び出していた。
「マーリ!」
小声で、茶器を運ぶマーリの背中に呼びかける。
さっと振り返る、マーリ。その表情は嬉しそうだった。
私が駆けよると、何も言わないうちに、トレーを渡された。
「どうぞ」
そのトレーには、二つのカップが置かれていた。乳白色の飲み物からは、あたたかな湯気が出ている。
私がそれに目を留めると、マーリは微笑んだ。
「グールドさまが、ミカ様の分と一緒にアラン様の分も用意しておくようにとおっしゃいました」
「……ありがとう」
私は内心、グールドの用意周到さに呆気にとられつつも礼を言った。
「アラン様、ミカ様のお部屋の方にもテラスの方にも、どちらにもランプを用意してあります。どうぞ、良き語らいの時間を」
そう言ってマーリは優雅に礼をした。
私はそれに頷いた後、美香の部屋に向かう。
うちとけて、理解しあいながら絆を結んでいくような語らいの時間とは……それはどういうものなのか……。
父と母が生きていれば、たずねたかった。
絆を強くしていく術を知りたかった。
美香の中にごく微量に流れる魔力というものが、いつも私と美香の間に横たわっていたとしても、心を結び合えば血肉にとけこんだ魔力よりも絆は強いと信じたかった。
昨日の外出は……守ると誓っていながら、結局、彼女を泣かせてしまった。
泣かせるのではなく、甘やかしたい。
彼女に教えてもらった名に、真実の込められた意味があるように、抱擁にくちづけに、結婚に真の意味と絆があることを…私は望む。
私は、歩みを止め、美香の部屋の前でいちど深呼吸した。
ノックすると、しばらくして扉の向こうに音がした。
「あぁ、マーリ?ごめんね、面倒なことたのんじゃって……」
そういう言葉とともに開かれてゆく扉。
……マーリでなくて、すまない。マーリでなく、私がミルクを届けることで、あなたを驚かせるか、失望させるか、邪魔となるか。
さまざまな不安を抱えつつも、できるだけ優しさと慈しみを込めて、名を呼んだ。
「美香……。どうぞ、飲み物を」
「……どうして、アランが…」
見上げてくる、黒い瞳。
「もしよければ、部屋よりも…この階の奥の庭に面したテラスで、一緒に飲みませんか?風が涼やかです」
「……」
「美香……」
無防備に白い夜着に包まれた姿で扉を開けた美香。
私が名を呼ぶと、美香の瞳が揺れたような気がした。
何かの書物で読んだが、古代において「名を呼ぶこと」とは、その呼ばれた存在の本質をこの世界につなぎとめる効果をもつと考えられていたという。
もしつなぎとめられるなら……何度も名を呼ぶのに。
「美香、行きましょう」
微笑めば、彼女は少し迷ったように一呼吸おいてから、軽くうなづいた。
「……うん。時には夜更かしも…いいね」
そう言ってから、少し笑った。
……笑わなくていい。
眠れないと素直にいいあえる間柄にはまだなれなくても、どうか無理に笑わないで。
そう心に願いつつも、私も微笑んだ。
「星も綺麗ですよ。初めてですね、夜のお茶会は」
「お茶じゃないけどね。まってね、いま何か羽織ってくる」
気持ちを切り替えたように、振り返って羽織ものをとりにいった背中を扉の横で眺める。ランプの明かりにほのかに映し出される華奢な後ろ姿。揺れる黒髪。
それを見つつ、扉を開けた時の美香の戸惑いの眼差しを思い出す。
――……それが、喜びの色でなく一瞬翳りを帯びたものだったことに気付いても。
私は、美香の方に踏み込んで行ってしまう。
ランプを消したのか、美香の部屋が一瞬暗闇に包まれ、そして彼女が薄紅色のガウンで身体を包み込むようにした姿で出てきた。
「……トレーもとうか?館の主人に運ばせるのも気が引けてしまうよ」
美香が困ったような顔で見上げてきた。
「いいのです、私が好きでしているので。行きましょう?冷めないうちに」
美香と私の間柄を、あたためつづけるために。
8/28 誤字脱字訂正。
11/15 誤字脱字訂正。表現・改行を変更。




