『稲妻の名刺 —岐阜から、百億へ』
目次
1. 上京一週間、名刺の角
2. 渋谷の屋上、四人の誓約
3. 数字の海と、心の地図
4. 祖父の帳面、消えた一行
5. 雨の高架下、割れる声
6. 大口案件、「一文」で決まる
7. 炎上の火種、刺さりすぎたコピー
8. 崩れた信用、店頭の返品箱
9. USB「ミナモ」と、社長の落ち度
10. 切断—静かな稲妻
11. 結婚届の前夜、誓いの更新
12. 稲妻の名刺
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1. 上京一週間、名刺の角
新宿駅のホームに降りた瞬間、胸の内側が熱くなった。排気の匂い、汗、甘い香水、焼きたてのパン。岐阜の朝の澄んだ空気とは違う濃度が、喉の奥にまとわりつく。
「東京って、こんな匂いなんだな」
独り言が、騒音に紛れて消える。
ポケットの中で、薄い紙の束が指に引っかかった。自分の名刺。出来立てで角が立っている。紙は薄く、誇張のない白。けれど、その白に印刷された二文字が重い。
——代表。
高校を出るとき、担任は「大学に行く意味は?」ではなく「行かない意味は?」を聞いた。
彼は答えた。「早く働きたい。早く自分の名前で勝負したい」
否定じゃない。焦りだ。
世界が広いことだけは、スマホの画面で知っていた。なら、一番若い今に飛び込みたい。学ぶ場所は、教室だけじゃない。現場に、数字に、人の目にある。
上京一週間。住まいは古いワンルーム。壁紙が剥がれ、窓の隙間から冷気が入る。床に寝袋、折り畳み机にノートPC。生活は学生みたいだ。でも胸は満ちていた。
「乾杯しよ」
同い年の仲間がコンビニワインを紙コップに注ぐ。仲間は三人。合計四人で会社を始めた。
「俺ら、百億いくから」
口にした瞬間、誰も笑わなかった。黙って頷いた。
その沈黙が、誓いになった。
机の上に名刺を一枚置く。蛍光灯に白が反射する。何者でもない白。けれど、もう戻れない白でもある。
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2. 渋谷の屋上、四人の誓約
渋谷の夜は星座みたいだった。ネオンが雲に反射して空が赤い。雑居ビルの屋上は風が強く、コンクリートが冷たい。けれど声を出しても街に溶ける。
「俺ら、何売るん?」
仲間の一人が聞いた。
彼は即答した。
「WEBマーケだ」
「SEOじゃなくて?」
「SEOもやる。でも主戦場はそこじゃない。俺らが売るのは“上位表示”じゃない。“買う理由”だ」
言葉を口にした途端、自分の中で何かが走った。稲妻みたいな熱。短く、痛い。決断はいつも痛い。
「広告、LP、SNS、動画、メール、全部。数字を追う。でも数字だけじゃない。信用まで設計する」
「信用」
その言葉はまだ、自分の手にないものだ。手にないからこそ、口にするのが怖い。
仲間がノートを取り出す。
「誓約書、作らん?」
彼は言った。
「ひとつだけ、絶対にやらないことを決めよう。嘘で成果を作ること」
「綺麗ごと」
仲間が笑った。
彼は笑わなかった。
「笑われてもいい。百億を嘘で作りたくない」
四人は誓約書にサインした。インクの匂いが、未来の匂いに思えた。
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3. 数字の海と、心の地図
WEBマーケは、人の心を数字に変える仕事だった。
広告のクリック率。LPの滞在時間。フォームの離脱率。購入率。LTV。数字は嘘をつかない。けれど、数字が真実の全部でもない。
朝、苦いコーヒーで目を開け、ノートPCを開く。寝袋から出た足が床の冷たさに震える。
仲間が言った。
「昨日の広告、CTR 2.8%だよ。業界平均の倍」
「CPAも下がった」
画面のグラフが上向いている。胸が緩みそうになる。
彼はすぐにコメント欄を見る。
「煽りすぎ」「怖い」「この会社、そんな品なかった」
数字が良いほど、心がざわつく。
“刺さる”と“刺さりすぎ”の境界は薄い。
「温度下げる」
彼が言うと、仲間の一人が眉を寄せた。
「落ちるぞ」
「落ちてもいい。信用は戻らない」
そう言い切ったとき、自分の声が硬いことに気づく。硬さの裏に不安がある。まだ小さい会社だ。間違えたら終わる。
昼は営業。名刺を差し出す瞬間、胸が熱くなる。紙一枚で人が繋がる。
夜は制作。広告の文言、LPの構成、動画の台本。人の弱さを知りすぎる仕事だ。正解がある。怖い正解が。
その正解を使うか、捨てるか。
そのたび胸の奥に稲妻が走る。
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4. 祖父の帳面、消えた一行
結婚を決めた夜、指輪の箱を机に置いた。小さな箱が眩しい。
「本当に結婚するの?」
彼女は笑って言った。
彼は笑い返したつもりだったが、頬がうまく動かなかった。
その夜、実家から段ボールが届いた。母の字でメモ。
「これ、あんたに」
中には古い帳面が一冊。祖父の帳面。
数字が並ぶ。仕入れ、売上、借入、返済。紙から古い油の匂いがする。子供の頃、この匂いが成功の匂いだと思っていた。
ページをめくって、手が止まった。
一行だけ、削り取られている。紙が盛り上がり、消し痕が残る。
——誰が、何を消した?
幸福の真ん中に冷たい穴が開いた。
祖父は起業家だった。女関係が派手で、それを“豪快さ”として語る大人がいた。彼も昔は、豪快さを強さだと勘違いしたことがある。
だが今、自分は結婚を決めた。自由より責任を選んだ。
帳面の消えた一行が、妙に重い。
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5. 雨の高架下、割れる声
会社が伸びるほど、仲間の距離が変わった。
同じ数字を見ているのに、見え方が違う。
会議が荒れた。
「攻めろ」
「信用が死ぬ」
「信用って何?数字出してから言え」
「数字だけで百億作って、何が残る」
言葉が尖り、互いの声の中に嫉妬と恐怖が混ざる。誰も悪意だけじゃない。だから痛い。
会議後、彼は外に出た。雨。高架下の暗がり。濡れた路面にヘッドライトが揺れる。
背後から仲間の声。
「お前、変わった」
「結婚するから?守りに入った?」
胸の奥が殴られた。
守りたい。だから攻めたい。矛盾が喉に詰まる。
「変わったんじゃない」
雨音に負けない声で言う。
「最初から、こうだった。百億って言ったの、俺だ」
仲間は目を逸らした。
その目の揺れが言っていた。——怖い。置いていかれるのが。
稲妻が空を裂いた。一瞬、街が昼になる。
彼は名刺を思い出す。名刺は差し出すものだ。差し出すには、背中を見せる必要がある。背中を見せるのは怖い。
それでも進むしかない。
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6. 大口案件、「一文」で決まる
幸福は油断の顔でやってくる。
老舗ブランドの案件が決まった。地方に根を張り、信用で食ってきた会社だ。担当者は言った。
「若い会社に任せるのは不安ですが、あなたの目がいい。うちの品位を守ってください」
“品位”
その言葉が胸に残った。
企画会議で、彼らは広告コンセプトを詰めた。
“安心”を売るブランド。誠実で、丁寧で、静かな強さがある。
それをWEBでどう伝えるか。
仲間が一枚のコピー案を出した。
太字で、短く。
「今だけ半額。逃したら損です。」
数字は取れる言葉だ。強い。
彼は嫌な予感がした。
でも同時に、資金繰りの現実も頭を叩く。大口案件。失敗できない。失敗したら、次の月の広告費が払えないかもしれない。
「これは…老舗の顔じゃない」
彼は言った。
仲間はすぐ返す。
「でも売れる。まず売上作って、あとで品位を戻せばいい」
“あとで”
その言葉が甘い。
彼は妥協案を出した。
「一旦ABテストで。数字見て決めよう」
自分でも分かっていた。これは判断の先延ばしだ。社長の逃げだ。
その瞬間、胸の奥で稲妻が小さく走った。痛いのに、止められない。
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7. 炎上の火種、刺さりすぎたコピー
配信が始まった。
A案:落ち着いた訴求(“定番の安心”)
B案:例の強いコピー(“今だけ半額”)
初日。数字は跳ねた。
B案のCTR 3.1%。CVR 2.4%。CPAは想定より30%安い。
仲間が勝ち誇った顔をする。
「ほらな」
彼は画面を見ながら、コメント欄を開いた。
最初は小さな違和感だった。
「老舗がこんな煽りする?」
「品が落ちた」
「焦らせてくるの嫌」
二日目。違和感が怒りに変わる。
スクショが拡散された。
「今だけ半額。逃したら損です。」
って、煽りすぎ。
あのブランド好きだったのに。
炎上は火が付くと早い。
“好きだったのに”
その言葉が一番痛い。売上は上がる。でも心が離れる。
三日目、クライアントから電話。声が硬い。
「売上は上がりました」
彼の胸が一瞬緩む。
次の言葉が稲妻だった。
「でも、信用が落ちた気がします。取引先から“最近どうした”と言われました。社内も荒れています。あなたたちの提案通りにやったのに」
彼は喉が乾いた。
「申し訳ありません」と言いそうになり、飲み込む。原因を知らずに謝るのは二次被害になる。
「全て確認して今日中に説明します」
電話を切ると、膝が震えた。
自分がABテストと言い訳して、判断を先延ばしにした。
逃げたのは自分だ。
仲間が言う。
「クライアントが神経質なだけだろ。数字出てんだ」
彼は言い返す。
「数字が出ても、心が壊れたら負けだ」
声が冷たくなる。冷たさの裏に、罪悪感がある。
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8. 崩れた信用、店頭の返品箱
その夜、彼女が言った。
「一緒に行こう。店」
「え?」
「数字じゃなくて、現場を見よう。あなた、今、頭の中が画面だけになってる」
彼は言葉を失った。
彼女は責めているのではない。道を示している。
雨の中、二人でクライアントの店舗へ行った。
店内の照明は温かい。木の匂い。丁寧に並べられた商品。
広告の煽り文句と、この空気が、噛み合っていない。
レジ横に、小さな段ボール箱があった。
「返品」
マジックでそう書かれている。
店員が小声で言う。
「返品が増えました。理由は“騙された気がした”って…」
騙された。
彼の胃の奥が締まる。
彼女が商品のパッケージを手に取り、言った。
「このブランド、ずっと“安心”を売ってきたんだよ。買う人は、生活を預けてる。そこを煽ったら…怖くなる」
彼は商品を見つめた。
紙の質感。手触り。香り。
画面の中にはない現実。
帰り道、彼は言った。
「俺、逃げてた。判断を、数字に預けて…」
彼女は短く言う。
「気づけたなら、まだ戻せる」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
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9. USB「ミナモ」と、社長の落ち度
翌日から、原因を追った。
広告管理画面、差し替え履歴、クリエイティブの更新ログ。
彼はここで、もう一つの現実にぶつかる。
——自分が管理しきれていない。
案件が増え、権限移譲を急いだ。
「スピードが正義」
そう言い聞かせ、レビューを省き、承認フローを簡略化した。
社長としての落ち度。忙しさを理由に、チェックを怠った。
夜更け、引き出しを開けると、見覚えのないUSBが入っていた。
小さなラベル。「ミナモ」
胸が一拍遅れて鳴る。祖父が長良川の水面を呼ぶ言葉。
USBを挿すと、古いメールが出てきた。祖父と共同創業者のやり取り。
最後のメールは短い。
「家族を守るなら、俺を切れ。恨まない。ミナモは流れる。止めるな」
帳面の消えた一行。祖父は共同創業者を切った。
その苦い決断を、帳面から削った。
そしてUSBには、もう一つフォルダがある。
「広告差し替え履歴」
彼の会社のログ。しかも、彼が知らない改変がある。
B案のコピーが、さらに煽り強化されていた。
「今だけ半額。逃したら損です。」
→ 「今だけ半額。逃した人だけ損します。」
たった一行。
けれど毒が濃くなっている。
——誰が、いつ、なぜ。
彼は椅子を蹴るように立ち上がり、暗いオフィスを見渡した。
雨が窓を叩く音が心拍みたいに続く。
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10. 切断—静かな稲妻
翌朝、全員を集めた。会議室の空気は冷蔵庫みたいに冷たい。
彼はログを投影した。差し替え時間、端末、担当者。
仲間の一人が目を逸らした。
その一瞬で確信する。確信すると心が楽になる。同時に痛みが増す。
「誰がやった」
短い言葉は刃になる。
仲間は笑おうとして失敗した。口元が歪む。
「…数字を守りたかった」
「守る?何を」
「百億だろ。お前が言ったんだよ。俺は置いていかれるのが怖かった」
雨の高架下の暗い目が、ここに繋がった。
彼は怒りより悲しみが先に来た。
「俺も悪い」
彼は言った。全員が驚いた顔をする。
「俺が承認を簡単にした。スピードを優先して、チェックを怠った。社長の落ち度だ」
仲間が吐き捨てる。
「なら一緒にやり直せよ。今さら綺麗ごとで信用とか言うな。短期で稼いで勝ち逃げすりゃいい」
その瞬間、彼は祖父のメールを思い出す。
守るなら切れ。流れを止めるな。
彼はポケットから名刺を出した。雨で少し波打った、以前の名刺。社名のインクがほんの少し滲んでいる。
机の上に、自分の名刺と、その仲間の名刺を並べた。
「これが始まりだった」
彼は自分の名刺を、ゆっくり裂いた。
紙が裂ける音は小さい。けれど雷鳴より重く響いた。
「終わりにする」
沈黙が落ちる。
仲間の表情が崩れる。泣くのか怒るのか分からない顔。
「冷てぇな」
「冷たいんじゃない。守るんだ」
退任。法的処理。契約整理。痛い作業が続く。
そして彼はクライアントに全てを開示した。
原因、経緯、社内不正、社長の管理不備、再発防止(承認フローの復活、倫理基準の明文化、クリエイティブ監査の常設)。
数字が落ちることも正直に言った。
担当者は長い沈黙のあと、低い声で言った。
「…あなた、若いのに、逃げないですね。今日の話、社内に持ち帰ります。もう一度、うちの“品位”を取り戻す設計を、一緒に考えてください」
彼は深く頭を下げた。
稲妻のあとに残る、微かな光を感じた。
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11. 結婚届の前夜、誓いの更新
結婚届を出す前夜。テーブルの上に書類とペン。窓の外は雨。
彼女が言った。
「顔、少し柔らかくなった」
彼は苦笑した。
「怖いのは変わらない。でも、逃げないって決めた」
「名刺、見せて」
彼は新しい名刺を出した。以前より厚い紙。ロゴも洗練された。肩書きは同じ、「代表」。
彼女は名刺の裏を見て、首を振る。
「裏、空白のままでいいの?」
「…何か書く?」
「書くなら、“あなたが自分で書いて”」
彼はペンを握った。
指先が少し震えた。
彼女が見守る。責めない。逃げ道を塞がない。だから逃げられない。
彼は名刺の裏に書いた。
一度、書いてから消した。
消しゴムで擦る音が雨音に混ざる。
もう一度、書いた。
逃げない。更新する。
「更新する?」
彼女が聞く。
彼は頷いた。
「一回誓ったら終わりじゃない。俺、また弱くなる。だから、誓いを更新し続ける」
彼女は笑った。
「それなら、百億より先に、百年いける」
胸の奥で、確かな稲妻が走った。痛みじゃない。進むための熱だった。
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12. 稲妻の名刺
結婚式の日、空は晴れていた。冬の光が澄み、空気が冷たい。
会場の入口で、彼は名刺を一枚握った。配るためではない。自分が自分に渡すための一枚だ。
スピーチの番。壇上に立ち、会場を見渡す。部下たち、メンター、そして彼女。
深呼吸。逃げない。
「俺は高卒で働きました。早く勝負したかった。早く自分の名前で立ちたかった」
会場が静かになる。
彼は続ける。
「WEBマーケは、人の心を動かす仕事です。動かせるからこそ怖い。間違って動かしたら、信用が壊れる」
返品箱の段ボールが脳裏に浮かぶ。
“好きだったのに”の一言が刺さる。
それでも言う。
「俺は百億の会社を作りたい。今もそう思ってる。でも百億の前に守るものがある。人の信用。仲間の人生。家族の手」
彼女の手を握る。温度が現実だ。数字より確かな現実。
「俺は一度、判断を数字に預けました。ABテストって言い訳して、決めるべきことを先延ばしにした。社長の落ち度で、信用を壊しかけた」
会場のどこかで、小さく息を呑む音。
彼は続ける。
「祖父は昔、会社を守るために共同創業者を切りました。帳面の一行を削ってまで、苦い決断を隠した。俺はそれを美談にしない。でも、逃げない覚悟だけは継ぐ」
ポケットの名刺を取り出し、裏を見る。
「逃げない。更新する。」
「名刺は薄い紙です。肩書きも大したことない。でも」
彼は名刺を胸の前に掲げた。白が光を受けて浮かぶ。
「この名刺を差し出すとき、胸の奥で稲妻が走る。稲妻は印刷されているものじゃない。差し出す指の震えに宿る。俺は、その稲妻を、今日から何度でも更新します」
拍手が起こる。
その音が、胸の奥を叩く。
彼は名刺を握り直した。紙は厚い。でも、厚さは目的じゃない。中身だ。
式が終わり、外に出る。冬の光が眩しい。
空の端で雲が少し動く。晴れているのに、遠くで雷鳴みたいな風が鳴った。
彼は名刺を一枚取り出し、想像する。
言葉も文化も違う場所で、信用を作る瞬間。
差し出す指の震え。
胸の奥の稲妻。
彼は名刺の裏を見て、小さく笑った。
そして、ペンで一行付け足した。
今日も更新。
名刺をポケットに戻す。
ミナモは流れる。
曇っても、雨でも、流れる。
彼も流れる。止まらない。
百億はまだ遠い。
遠いからこそ、今日の一歩で近づける。
彼は歩き出した。
稲妻を胸に、名刺を手に。
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