異変は突然に
リズは隣の部屋から響く重たいものが床に落ちる音と、絹を裂くようなアリシアの悲鳴で目を覚ました。
「っるせぇな」
最初はアリシアが足の上か何かに重たいものでも落としたのだろうと思い、まだ時間も早いこともあって二度寝にふけろうとした。
しかしアリシアがノックもせずにこちらの部屋に乗り込んできた。
何やら様子がおかしい。
いつも礼儀正しく作法っをわきまえているアリシアにしては、他人が使っている、たとえそれが自分の家だろうと、部屋に入るときは必ずノックをしていた。これがノックもせずにとなると、そうとう厄介なことが起きているようだ。
「リズどうしよう……ミオがッ」
アリシアの慌てようにリズは気が気でなかった。もしかしたら大けがでも負ってしまったのかとか思っていた。しかしアリシアの部屋に行ってみればなんてことなかった。いや、なんてことない、というわけではないけど、アリシアの慌てようと釣り合わないほどに軽いものだった。
「風邪だな。一日安静にしていたら治るよ」
「ホント? ホントにホント⁇ 」
「ああ、だからお前も救急車呼ぼうとすんな!」
リズはアリシアの慌てように嘆息する。
アリシアが一人暮らしをするために借りた2LDKのこの部屋からもわかる通り、いいところのお嬢様だ。
さらに言えば健康優良児そのものであったらしく、めったに病気をすることもない。これに関してはリズも同じなのだが……。
「まさか風邪を知らないとは」
「ふーんだ。どうせ私は世間知らずですよーっだ」
まさかとは思っていたが、まさにそうだったとは……これを世間知らずで済ませていいのかリズは大いに頭を悩ませた。
「とりあえず、隣の部屋に移すか」
「え、どうして?」
不思議そうに尋ねるアリシアに、リズは部屋の内装を眺めながら苦笑で返す。
「こんなに物が多かったらゆっくり休めないだろ」
そんなこんなでミオをアリシアがあ抱き上げて、隣の部屋まで移動させた。
その他の準備もテキパキとこなしていく。ミオの汗まみれの体を湿らせた清潔な布で拭いたり、パジャマを着替えさせたり。その手際に一切の迷いはなく、手慣れていた。
一通りのことを終わらせてリズはリビングへと向かった。案の定アリシアがソワソワとしていた。
(ただの風邪だってのに、何がそんな心配なんかね)
ミオが熱を出したのも当然といえば当然だ。元より環境が大きく変わったストレスもあっただろうし、昨日の水遊びがとどめとなったのだろう。水遊びで体が冷えたのに、ミオはシャワーを浴びる程度しか入ってなかった。
自業自得だといえるかもしれないが、ミオの事情を鑑みると、もう少し配慮すべきだったとリズは反省した。
「さすが、お姉ちゃんだね」
リビングをうろうろしていたアリシアが、ソファにやっと腰を落ち着けた。
「何を唐突に」
「私一人じゃここまでできなかった……」
「そりゃあたしは何回も病気になったチビの看病をしているからな。手慣れてて当然さ」
「でも私は……」
アリシアが何かを思い詰めているように俯いている。
(本当に何をそんなに追い詰められているのやら)
リズは面倒くさそうに頭をガシガシとかき、大きくため息を吐いた。
「お前なんか変わったな」
「え……?」
変わったという言葉に心外とでも言いたげな視線を向ける。
どうやらアリシア本人には自覚がないようだ。人にはそれぞれ他人には見せない一面があるとは言うけれど、今のアリシアはリズの知っているアリシアとは違って見える。
「だってお前、あいつと出会う前はなんつうか……冷静沈着? 冷徹? これも違うな……なんというか、こう、できる女みたいな感じだったじゃん」
以前のアリシアは、ミオに向けるような慈しみの顔を他人に向けるような性格ではなかった。よく言えば真面目で冷静、理性に基づいた判断ができる。悪く言えば冷たい人間だった。
「お前は変わったよ。でもそうやって一人で何でも抱え込むのは変わんねえんだな。何をそんなに抱え込んでるんだ? ほれ、昔みたいに相談に乗ってやってもいいだぞ?」
そう、昔からそうだった。アリシアはなまじ何でも一人で何でもできるがゆえに、人に頼るのが苦手な一面があった。なんでも一人で抱え込んで、そして独りでひっそりと潰れている。どんなに変わろうと、そこだけは変わってない、リズの知っているアリシアだ。
しかしアリシアは首を横に振る。
「これは私の問題だから。リズは巻き込めないよ」
リズはもう一度ため息を吐いた。
(本当に隠し事が下手なやつ)
しかし、だからといってリズもそこまで性格がいいわけではない。何か隠していることが分かっていても、それを無理に聞き出そうとはしない。代わりに――
「それなら中学のときみたいに泣きつくなよ。エーン、エーンってな」
「それは昔の話でしょ⁉ それにそんなに泣いてなんか……」
アリシアが顔を真っ赤にして反論をするために顔を上げる。そしてようやくからかわれたことに気付いたようだ。今度は怒りではなく、羞恥で顔を赤くしていた。
「ホント性格悪いわよ」
「ハッ、うじうじしてる方が悪いんだろ……それと本当に助けが必要なときは頼れよ。あたしにできる範囲でなら協力してやるから」
もうあのときみたいに、つぶれたアリシアを見たくはない。
「それから、なんだよお前の部屋……ずいぶんと可愛らしかった、な」
「ああ、だから見せたくなかったのに」
アリシアが頭を抱えて悶え始めた。
(もう、大丈夫そうだな)
「別にいいじゃない! 人の趣味は十人十色、人それぞれなんだから‼ 」
その後アリシアから人の趣味の多様性から、果ては世界の広がりについてまで延々と講釈を聞かされる羽目になった。
リズはこの時、アリシアの一番からかってはいけないタブーが何かを知った。




