エルフの星船 2
結局、ラノウスの大瀑布には三日間滞在した。
二日目には近くまで行ってみたのだが、滝つぼの周囲では強風と水飛沫が嵐のように吹き荒れていて、とてもではないが真下まで行くのは不可能だった。うねる水煙に突っ込んだだけで、あっという間にびしょ濡れになってしまうのだ。しかし、どうにもこれが新しい感覚の水浴び方法として女性陣には好評だったらしい。
レティは初めこそ不満たらたらで、事あるごとに景色を眺める俺の邪魔ばかりしていたのだが、二日目の昼にラキアからエルフ語を教えて欲しいと頼まれてからは、すっかりそちらに付きっ切りだ。
たぶん、退屈そうなレティを見るに見かねたラキアが、どうにかして気を紛らわせてやろうと気を使ったのだろう。まったく。彼女の方が年下なのだから、少しは見習ってほしいものである。
まあ、そのおかげで俺もゆったりと景色を楽しむことが出来たのだが。
そして三日目。
惜しみながらラノウスの大瀑布を後にした俺たち(俺だけ)は一路、西へと進路を取った。
レティの望み通り、森から出るためだ。
ひとまずはラノウスの大瀑布から大河に向かって流れる川に沿って進み、そこからローセオン領の南へ出ることにした。
ここはロスリンの森の最奥部。いくら森の中でも方向感覚抜群なレティがいても、森を抜けるまでは十日ほどかかる。大河周辺では木々が西側に張り出しているらしいから、その分余計に森を歩くことにはなるが、飲み水の心配をしなくていいので結果的に足は速くなるはずだった。
レティは時々、木に登って周辺を確認する以外、ラキアに付きっ切りでエルフ語を教えている。昨日までは基本的な単語の意味を教えていたのが、今日からは実践会話的な講義内容に変わっていた。
「ええと、それじゃあ“セレナス”が“私”で、“ニム”が“名前”だから……」
「そ。ちなみにエルフ語の一人称は男女で変わるのよ。私たちは女だから“セレナス”、男の場合は“アインナス”ね。ということで、はい、どうぞ」
「レ セレナス ニム ラキア」
「上手、上手」
エルフ語で自己紹介をしたラキアに、レティが拍手を贈っている。
ちなみにラキアの発音は俺より上手かった。畜生。
「ねえ、一つ分からないことがあるんだけど。セレナス ニム だけじゃ駄目なの? 最初に付ける“レ”にはどんな意味があるの?」
ラキアが首を捻りながらレティにそう訊いた。
ああ、それは。
「意味はないわね」
「意味はないな」
俺とレティがほとんど同時に答える。
「意味ないの?」
「そ。ていうか、日常会話で正確な言葉を使っちゃ駄目だし」
「えーと、どういうこと……?」
大雑把な説明をするレティに、ラキアが助けを求めるように俺を見た。
まあ、確かに。その説明の仕方じゃ分からないよな。仕方ないな。
「エルフ語ってのは、神々が使っていた言葉から作られた言語だ。だから、神々の言葉ほどじゃないにせよ、力がある。分かりやすく言えば、魔法の呪文みたいなもんだな。正確な言葉を、正確な順番で発音すると、その力が発動してしまう。だから、日常会話ではわざと無意味な音節を入れて言葉を崩すんだよ」
そう説明した俺に、ラキアはへえと感心した様な声を漏らす。
「特にラキアは、何の血を引いているのか分からないけど、それだけ派手に精霊人の力が発現しているから。気をつけろよ」
「それってつまり、私にも魔法が使えるかもってこと?」
釘を刺すつもりで言った俺に、彼女は何かを期待するような顔でそう訊き返してきた。
「まったく無理とは思わないけど、人間のラキアが私たちと同じようなことをするのは難しいわね」
そんなラキアに答えたのはレティだった。
「風や火、水の声を聞いて、語り掛けてお願いを聞いてもらうのが私たちエルフの業だから。耳の尖ってない人間の魔術師が使うのはまた別の力だって聞いてるわ。まあ、その辺はルシオの方が詳しいでしょ?」
でしょ、とか言われてもな。魔術はからっきしなんだ。
リタから何度か講義を受けたことはあるが、いつも途中で睡魔に負けてしまうせいで理解には至っていない。
それを正直に告白したところ、「要するにやる気がないだけじゃない」と呆れられてしまった。
「でも、そうなると。名乗る時に“レ”をつけなかった場合はどうなるの?」
恐る恐る聞いたラキアに、レティが答える。
「天と地の間に在る全てのものへ、自分の存在を宣言することになるわ」
「え」
「別に何が起こるわけでもないから、やりたいならやってみてもいいけどねー」
「……やめておくわ。なんか、規模が壮大になり過ぎて理解が追いつかないから」
それが良いと思うよ。うん。
さて。レティのエルフ語講座は続いているが、そろそろ今日の寝床を決めないとな。
陽が傾きかけてきた空を見上げながら、そんなことを考えた時だった。
右手側。つまり森の中から、何かが聞こえた。かなり遠くから響いているようで、はっきりとは聞き取れないが。
「歌……?」
「エルフ語みたいね」
呟いた俺のすぐ後ろで、レティが森を見つめながら言う。どうやら、二人にも聞こえているようだ。
「それに、この歌」
特に、レティには俺たちよりもはっきりと聞こえているらしい。
「……こっちから聞こえる。行ってみましょ」
しばらく耳を澄ませたあとで、彼女は森の中へ入っていった。
俺とラキアもその後に続く。レティがいるから、迷うという事は無いだろう。
しばらく進むと、先ほどまで微かだった歌声がはっきりと聞こえるようになった。
森の空気を静かに震わせるそれは少し悲しげで、荘厳な響きに満ちている。まるで何かに別れを告げているようだと思った直後。先を行くレティがあっと小さな声を漏らして、その場にしゃがみ込んだ。
「二人とも、こっち」
低木の影に隠れるようにしながら、レティが俺たちを手招きする。
俺とラキアは何だろうかと顔を見合わせてから、彼女の下へ近寄った。
「どうしたんだ?」
「ほら、あれ」
尋ねた俺に、レティが茂みの向こう側を示した。
覗き込んでみると、そこはちょっとした森の中の広場になっている。
そして、その中央にはあまりにも場違いなものが置かれていた。
木造の帆船だ。白木で組まれた船体から何本かロープが伸びていて、近くの木に結び付けられている。よくよく観察すると、船は地面からわずかに浮いているように見えた。
そして、その周囲では何人かのエルフたちが忙しそうに動き回っている。大きな荷物を船の中に運び込んでいる者。船体の様子を見て回っている者。ロープの調子を確かめている者など、どうやら彼らは出向の準備をしているようだ。
ロスリンの里のエルフたちではない。着ているローブの色や模様が少し違う。
「これは……初めて見たな」
「私もよ」
小声で呟いた俺に、レティが頷く。
「なんなの、あれ? どうして森の中に船があるの?」
一人、あれが何なのか分かっていないラキアが囁き声で俺たちに訊いた。
「アレは星船よ」
答えたのはレティだった。
「星船?」
「星々の海を渡るための、エルフの船だよ。エルフはあれに乗って地上を去り、神々の園へ行くんだ」
わずかな羨望を抱きながら、俺はラキアにそう教えた。
神々の園。至福の国や、浄福の地など様々な名で呼ばれるそこは、星々の海を越えた先にある、俺たち人間が神々と呼ぶ存在の住まう場所だ。
そこにはあらゆる悲劇が存在しないのだという。恐怖や不安もなく、強大な悪意すら届くことはない。地上での長すぎる生に飽いたエルフたちに与えられる、最後の憩いの地。
人の身では決して辿り着くことができないからこそ、どうしようもなく憧れる。
と、そこへ星船の置かれている広場へエルフの一団が姿を現した。先頭の数人は真っ白な白馬に騎乗している。軽鎧に、腰には剣を吊っており、弓と矢筒を背負っているから、エルフの戦士たちだろう。その後ろには旗を持った従者が続き、さらに大きな馬車が何台も列を成している。一行の規模からいって、相当高貴な身分の方が馬車に乗っているのだろう。
「あれはエノレシアの人たちだわ」
従者の持つ旗を見たレティがそう呟いた。
エノレシア。大河の南にあるという、白亜の都。初めの都とも呼ばれることがある。
それは初めに目覚めた者たち、つまりエルフたちによって神代に築かれた彼らの王国だった。今なお大陸に残るエルフたちは、元を辿ればすべてこのエノレシアの民だったという事になる。
という事は、レティにとっては親戚であり、俺にとっては遠いご先祖様の親兄弟ってことになるのか。
間に合わなかったなと思った。
エノレシアには白亜殿と呼ばれるエルフの王宮があると聞いていた。
いつか、そこにも行ってみたかったのだが。
「そっか。行っちゃうのね」
そんな俺の気持ちを代弁するように、レティが少し寂しげに呟いていた。
ところで、なんで俺たちは隠れているのだろうか。いや、まあ、その気が無かったとはいえここまで盗み見てしまった以上、出るに出られないんだが。
なんとなく罪悪感のようなものがある。
「どれくらいの旅なの?」
馬車から降りたエルフの貴人たちが、船体に立てかけられた板を登って続々と乗り込んで行くのを見つめながら、ラキアがレティに訊いた。
「そうねえ……私も聞いたことがあるだけなんだけど。人間の一生が三回繰り返せるくらいはかかるらしいわ」
「そんなに!?」
レティの答えに、ラキアが小さな声で驚く。
「ねー。退屈じゃないのかしらねー」
そんなエルフは君だけだろ。と、そう口にしようとした時だった。
「退屈ではありませんよ」
背後から突然、柔らかい声が彼女に答えて、俺たちは硬直した。




