ロスリンの森 2
「えっ、だ、誰!?」
驚いて大声を上げるラキアの横で、俺は右手をそっと剣の柄に伸ばしながら立ち上がった。頭上を仰ぐと、近くの木の上に小柄な少女の姿があった。
先ほどの声は、彼女が発したものらしい。
その出で立ちは、森の中を歩くにしては酷く軽装だ。
曲線の多用された不思議な紋様の描かれた、夏の草木のように濃い緑色のマントを羽織り、その下には春の新芽のような若草色の生地で織られた薄手の服に、枯れ草色の短いズボンを穿いている。そしてズボンと同じ色の、膝まであるブーツを履いていた。
だが、何よりも注目すべきは肩までかかる淡い蜂蜜色の髪の下から突き出す、尖った長い耳だろう。
間違いない、エルフだ。
どうすればそれほど太くもない枝の上に、手も使わずに直立できるのだろうか。
エルフの少女は矢のつがえられた弓を構えながら、まっすぐに俺たちを狙っていた。
「人間が二人。こんなところで何をしているのかしら?」
尋ねるその声は厳しい。
「あ、あの、私たちは別に、怪しいものじゃ……」
突然、弓を突きつけられて慌てたのか。ラキアが事情を説明しようと口を開く。
それを片手で制して、俺は樹上に立つ彼女へと一歩進み出た。
エルフの少女は翡翠色の大きな瞳で俺を油断なく見つめている。剣に手を伸ばすような素振りを見せた途端、射かけてくるだろうな。そんなことを予想しながら、俺は彼女に向けて開いた右手を左の胸に当てて、軽く腰を折った。
「|ディ ソアレ ア シゼルレア ルンメン(我らに太陽の導きを)」
俺がそう言葉を発した途端、少女の長い耳がぴくんと跳ねた。
流暢とはいえないかもしれないが、かなり練習したから聞き取れないほど発音が崩れてはいないはずだ。
「なんで私たちの言葉を……って、貴方、銀髪?」
少女は驚いたように俺を見つめてから、何かを思い出したように構えていた弓を下ろした。それから、立っていた枝の上からふわりと、まるで羽のような軽さで地面へと降り立った彼女は、そこで先ほど俺がしたのと同様に、右手を左胸へあてた。
「|アル ルシン ウェレニアス リ セルティ(そして月明りの安らぎを)」
俺が先ほど発したものよりも遥かに音楽的な発音とともに、彼女が小さく腰を折る。
俺と彼女がそれぞれ口にしたのは、エルフたちが作った古い詩の一節だ。太陽と月について謳ったもので、初対面の相手とは、その一節を互いに詠みあうとこによって挨拶をするというのが、エルフたちの正式な作法なのだという。
「リ アインナス ニム ルシオ」
「レ セレナス ニム レティスリリア」
それから、俺たちは互いにエルフ語で名乗りあった。
彼女の名前はレティスリリアというようだ。“払暁の月麗花”とは、エルフだとしても中々に私的な名前だな。
そう思いながら、俺は彼女を観察した。
かつて、妖精人とはエルフのことだけを指す言葉だった。それが、数多の精霊や妖精たちが肉の身を纏って人間と交流することになってから、そうした存在の全般を指すようになったのだという。
エルフの少女、レティスリリアはまさしく妖精のような見た目をしていた。
淡く発光しているようにも見える白い肌。何もかもが小柄にまとまった面立ち。その中で、星々の瞬きを水晶に閉じ込めたかのような翡翠色の瞳だけが大きく輝いている。
彼女もまた、その翡翠色の瞳で俺のことをしげしげと見つめていたが、やがて。
「ま、長いから、レティでいいわ」
片目を瞑りながら、エルフの少女、レティはそう笑った。花が弾けるような笑顔だった。
これ以上、エルフ語での会話は正直言って無理だったので、彼女が人間の言葉を使ってくれたことにほっとする。
と、俺たちが一通りの挨拶を終えたところで。
「え、え? 何、どうしたのルシオ? なんでいきなり歌い出したの?」
一人、まったく状況を理解できていないラキアが、俺たちの顔を交互に見比べながら不思議そうに言った。
そんな彼女に苦笑しつつ、今のはエルフ語で挨拶をしたんだと教える。
エルフ語は、知らない者には歌を歌っているように聞こえるのだ。確かに、初対面のはずの俺たちが突然歌い出したら、驚くのも無理はないだろう。
「エルフ語なんて話せたの……」
「ま、あんまり上手じゃなかったけどね」
感心しているラキアの横で、レティがからかうような声を出した。
うるせえ。これでも頑張ったんだと、内心で彼女に言いかえす。
エルフ語は正直いって、単語を覚えるだけならそれほど難しくはない。というのも、この大陸では未だに高貴な身分の者たちが名前として使っていたり、また地名として残っていたりと、聞き慣れた単語が多いからだ。
それじゃあ、いったい何が一番難しいかといえば、発音だ。先ほど、エルフ語は知らない者には歌っているように聞こえるとラキアには教えたが。実際、エルフ語は言葉を話すというよりも、歌を歌うという感覚に近い。
うちの一族で一番エルフ語が上手かったのはミリアだが、これはもう生まれついての才能だと思う。要するに、音痴には厳しい言語なのだ。
とはいえ、相当練習してきたから、そんなに下手でもないと思ってたんだけどなぁ。
などと一人、落ち込んでいる間に、レティはラキアにも人間の言葉で自己紹介をしていた。
「ふぅん。ラキア、綺麗な名前ね」
「え? そうですか?」
自分の名前を褒められたラキアが、不思議そうに訊き返している。
「変わった名前だとはよく言われるけど……」
「あら、自分の名前なのに、由来を知らないの?」
首を捻っている彼女を見て、レティが快活に笑う。
どうでもいいけど、出会ったばかりだというのに随分と打ち解けた態度だな。まあ、堅苦しくされても困るんだけど。もうちょっと警戒されるかもとは思っていたから、なんだか拍子抜けだ。
そう思っていると、ラキアが助けを求めるように視線で問いかけてきた。
「ラキアってのは、星の名前だよ。まあ、エルフ語での呼び名だけど」
どうやら、本当に意味を知らなかったらしい。そう教えた俺に、そうだったんだと、ラキアは驚いたように呟いていた。
そんな彼女に、俺は古い伝承の一節を諳んじてみせた。
「第七の星。南方の薄明に一等輝く者。右手に銀の鎖、左手に猛く燃ゆる盾持ちて、夜を見張る戦乙女なり、ってな」
それは神話に出てくる女神の一柱。夜を守る四人の守護者の一人でもあり、宵闇に紛れ込む邪なものを捕えて、邪悪の討ち手である戦神フィンへと引き渡すことを役目としている。
そういえば、この女神は時に捕えた者を討ち手には引き渡さず、己の下で全行を積ませることによって改心させることがあるとか。そのことから、炎髪の戦乙女とも同一視されるんだったか。そこから名付けたのだとすれば、ラキアの御両親はもしかしたら、かなり古い伝承に通じている人たちだったのかもしれない。
ラキアの真っ赤な髪を見つめながら、ふとそんなことを思った。
「それにしても。貴方がルシオ・アルバインなのね」
自分の名前にそんな意味があったのかと驚いているラキアの横で、レティがしげしげと俺を見つめながら口を開いた。
「人間が自力で惑わしの結界を破るなんて驚いたけど、それなら納得だわ」
事も無げに告げられた、惑わしの結界という単語を聞いて、やはりそうだったのかと俺も納得する。そもそも、エルフの住む魔法の森には踏み込んだ部外者を惑わせる仕掛けが施されているのなんて定番じゃないか。
ま、自力で破ったわけでもないんだが。胸元を軽く叩きながら、ご先祖様に感謝した。
「ん? ちょっと待てよ? 何で、俺の名前を知ってるんだ?」
「なんでって、いま自己紹介したじゃない」
「いや、そうじゃなくてだな……」
俺が名乗ったのは名前だけだ。アルバインとは名乗っていない。そもそもアルバインの名は、アンヌ―レシアで主将の座に就く際、家名が無くては色々と面倒だということで適当に決めたものなのだ。
それをなんで、聞いてもいない彼女が知っているのか。
「貴方のことはお父様から聞いているしね。近いうちに訪ねてくるだろうって」
さらに問いかけようとする俺を遮るように、レティがそう言った。
「お父様?」
「とりあえず、着いてきて。私たちの里まで案内するわ」
聞き返す俺には答えず、レティはさっと踵を返すと、先導するように森の中を歩き出した。




