脱走
「それでは、お休みなさいませ」
結局、寝室の前まで着いてきたラキアがそう言って深々と頭を下げる。
「ああ。お休み。今日は忙しかっただろ。君もゆっくり休んでくれ」
俺はそんな言葉を返して、扉を閉めた。
窓から差し込む月光と、ベッド脇の燭台に灯されている蝋燭の灯りで照らされている薄暗い室内の中。すぐに扉からは離れず、外の様子を窺う。次第にラキアの足音が遠ざかり、それが階下に消えるのを確認したところで、俺はベッドに近づいた。
そのまま、柔らかなシーツの上に倒れ込みはしない。身を屈めてベッドの下に腕を突っ込む。
引きずり出したのは、革で作られた小さめの背嚢だ。
故郷にいた頃から愛用しているこの背嚢は大型の獣の皮を黒く染めぬいて作られたもので、形状はどちらかといえば肩掛け鞄に近い。円筒状の本体からは背負い紐以外にも、無数の革紐が縫い付けられている。収納量が少ない代わりに、この紐にちょっとしたもの、たとえば野外調理用の鉄鍋なんかを括りつけておくのだ。
俺は床に腰を下ろすと、背嚢の中身を月明かりの中に並べた。
とは言っても、そんなに量があるわけじゃない。
革紐に括りつけてある鉄鍋の他、いくつかに分かれた物入れの中に入っているのは火打ち石一式と、縄。それに釣り糸と釣り針。塩や調味料の入った小袋が幾つか。
何時でもここを抜け出せるように、最低限、旅に必要なものを纏めておいたのだ。
抜けているものがないことを確認してから、次に衣服入れから着替えを取り出す。
肌触りの良い生地で織られた上下一体の室内着を脱ぎ捨てて、暗褐色のズボンを穿き、麻布でできた厚手のシャツに丈の短い鎖帷子を着ける。さらにその上から黒いチュニックを羽織り、腰に剣帯を締めて、馬革の編み上げブーツを履く。
ブーツの紐をきつく締め上げたら、今度は装備だ。
まず、片刃の大振りなナイフが収まっている鞘を取り上げた。戦闘にはもちろん、調理などのちょっとした作業にも使える万能ナイフだ。鞘からは肩掛け紐が伸びており、それを使って左脇の下に固定した。
これは戦いの際に、左右どちらの手でも抜ける位置だ。
ナイフを鞘から抜いて、刀身に曇りが無いかを確かめてから、次に投擲用のダガーを手に取った。剣帯の背中側には幅の小さい革帯が縫い付けてあり、そこに五本のうち四本を挟みこんだ。残る一本は、右脚のブーツに縫い付けた鞘へ収める。
最後に、部屋の隅に立てかけておいた精霊鋼の剣を右の腰に吊って、使い古した灰色のマントを羽織れば、旅支度は完成だ。
後は。
ベッドの脇に置かれているサイドテーブルの引き出しを開けて、そこから一枚の紙を取り出す。この一月の間に、準備しておいた書置きだ。
そこには将軍職を辞めることと、これまで受け取ってきた給金の内、サラさんとラキアたち使用人に払う分など、必要経費を除いた全額を返上することが書いてある。
元々、給金にはほとんど手を付けていない。この屋敷だって借り物だ。
将軍を辞める理由、というか言い訳については色々と考えたのだが、俺には果たさなければならない使命があるとかなんとか。適当にそれっぽいことを並べ立てておいた。
最後に、そこへサイドテーブルの上からペンを取り上げて「アルド、あとは任せた」と短く書き加えた。
これで後顧の憂いは無くなったといえる。
先代族長、つまり俺の祖父さんに代わって一族の取りまとめをしていたアルドを残していけば、突然俺が居なくなった穴を埋めるには十分なはずだ。
魔獣や魔物、化け物との戦いに関する知識や経験はもちろん、剣の腕前すら俺よりも上なのだから。
まあ。若干、身内を人身御供として差し出したような後ろめたさは残るが。だが、これ以上ここにいたところで、この国で俺に出来ることなど何もない。
それはこの一月で確信したことだった。
今のアンヌ―レシア王国には、驚くほどの人材が揃っている。
近衛騎士団長のユースタスはちゃらんぽらんに見えても、いざ戦いとなればこの上なく頼りになる野戦指揮官だ。
副団長のダスティンも、やや生真面目すぎるきらいがあるものの実力は申し分ない。
この二人だけでも十分なのに、その下の騎士たちはいずれもあの魔軍戦争の激戦を潜り抜けてきた勇士たちばかり。それは王軍の指揮官も同じだ。
さらに、王宮にはリタのような知恵者がたくさんいる。
もう一度、あの戦いが起こるのならばともかく。もはや、俺などの出る幕は何処にもない。
心のままに。
アルドから伝えられた、祖父さんの遺言を思い出す。
あの厳格な祖父さんが認めてくれたのだ。
ならば、俺は間違ってないはずだ。
サイドテーブルの上に書置きを残して、俺は月明かりに照らされる窓へ近づいた。
俺の寝室は屋敷の二階、玄関前の庭を見下ろせる位置にある。
当然だが、窓から見える庭は静まり返っていて人の気配はない。
音をたてないよう慎重に窓を開けると、風が吹き込んでカーテンがふわりと膨らんだ。
夜風を浴びながら、俺は金剛石の指輪を胸元から取り出すと指に嵌めた。そこに込められていた不可視の力が指から全身を駆け巡って、四肢に活力が漲る。
屋敷からの脱出方法は、ラキアと初めて会った時のことを参考にすることにした。
アルドたちはすっかり眠りこけているはずだ。三人ともまさか、再会したばかりの俺が姿をくらませるなど思ってもいないだろう。
サラさんやラキアは今日の片付けと明日の準備に忙しいはず。いや、もしかしたらもう休んでいるかもしれない。客人もいるから、明日は朝も早いだろうし。
また明日と別れたリタも、初めて屋敷に客人を招いた俺が、それを放りだしていなくなるなんて予想もしないはず。
つまり、誰も彼も油断している。
決行するなら、今夜しかない。
我ながら、完璧な計画。
行ける。これで俺は自由だ!
心の中で快哉を叫びつつ、俺は窓から夜の中へひらりと身体を躍らせた。
そして。すたっと地面に着地した瞬間。
「何処へ行かれるおつもりですか?」
屋敷の影に隠れるようにして立っていたラキアから、そう訊かれた。




