馬蹄砦の合戦 17
ルシオ
ルシオ
ルシオ
誰かが俺を呼んでいる。
ルシオ
ルシオ
ルシオ
執拗に。繰り返し、繰り返し。何度も、俺の名を。
ルシオ
ルシオ
ルシオ
次第に大きく、耳障りになる呼び声に目を開けると、周囲は闇そのものだった。
上も下もなく。前も後ろもなく。右も左もない。
何処までも漠然と広がる暗闇の中に、俺は漂っていた。
もちろん、これは現実じゃない。
子供の頃から何度も見たことがある夢の中だ。
どうやらウータヴァルの一撃で気を失ってしまったらしい。
おかげで、見たくもない夢を見ることになってしまった。
ルシオ
ルシオ
ルシオ・アルバイン
暗闇の向こうに何かがいる。
見えずとも分かる。それは恐ろしく巨大な影だ。
それが先ほどからずっと俺を呼んでいる。時には叫ぶように、時には甘く囁きかけるように。嘲るような笑いと、罵るような呪詛の響きが入り混じる声で何度も、何度も、俺を呼び続けている。
うるせえなぁ。
あまりのしつこさに、思わず舌打ちが漏れた。
ははは。ルシオ。ルシオ・アルバイン。久方ぶりではないか。
反応を示した俺に、声の主が嬉しそうに笑う。
夢に現れる黒い影。その呼びかけには決して答えてはならない。
もしも返事をしてしまえば、悪霊の王に見つかり、影の中へと連れ去られてしまうから。
この大陸に生まれた子供が、物心つく頃に教えられることだ。
もちろん、俺も子供の頃に祖父さんやアルドたちからきつく言いつけられていた。
しかし。
生憎、俺はいま忙しいんだ。
お前に構ってる場合じゃない。
そんな言いつけを堂々と無視して、俺は影に答えた。
別に言いつけを破るのは今回が初めてじゃない。祖父さんにもアルドにも教えていない事だが。ガキの頃から何度も、俺はこの影と言葉を交わしている。
ここでは、この夢の中では、言葉を発さずとも心で思ったことを直接、ヤツに伝えることが出来る。子供の頃から繰り返し何度も見た夢だから、手慣れたものだ。
ともかく、とっとと目を覚まさねば。こんな夢など見ている場合じゃない。
そう思った俺に、影が嘲るように囁く。
相も変わらず、なんと深く、強い憎しみか。
人の心の底から浚いだした澱を弄ぶような声だった。
目覚めてどうする。
もはやお前には勝ち目などない。お前も、お前に従った者たちにも、二度目の夜明けは訪れぬ。
それでも抗うか。
先祖が今のお前を見たら嘆くであろうな。
今のお前は、己の恨みを晴らすために、うわべだけの気高さを振りかざして、人の子らを無謀な戦に駆り立てているだけではないか。
ああ、それは。確かにその通りだった。
俺はオークが憎い。ゴブリンが憎い。この世に存在する化け物どもが全部憎い。
人々は俺のことを救い主だの、英雄だのと囃し立てるが、結局のところ俺が戦う理由は奴らへの恨みつらみからなのだ。
誰よりも先陣を切って進むのは、一刻でも早く敵を切り殺したいからだ。
どんな絶望的な状況でも諦めを知らないわけじゃない。
どんな絶望的な状況だろうと、諦める理由が俺にはないだけだ。
ただ目の前の怨敵を一匹でも多く殺したい。可能であれば、出来るだけ惨たらしく。
そんなことを考えているヤツが、英雄であっていいはずがない。
我が軍門に下れ、ルシオ。
思わず自嘲の笑みを浮かべた俺に、影が言った。
儂に従うのだ。
そうすれば、想像もつかぬような力をくれてやる。
オークもゴブリンも一夜で滅ぼせるような力だぞ。
それは魅力的な提案だ。
だが、代償はなんだ。どうせただじゃないんだろう。
なに、簡単なことだ。いずれ儂は、この楔を断ち切ってそちらの世へと帰還する。
そしてあの裏切者ども、お前ら人間が神々と呼ぶあやつらを天の座から追い落とす戦いに参陣してくれればよいだけだ。
気の遠くなるような話だな。
我が力を受け入れれば、お前を縛る寿命などなくなる。
その力をもってオークどもを滅ぼしたあとで、お前は永遠に人間を支配することもできる。理想郷を築き上げることすら夢ではない。
なるほど。理想郷ときたか。
そうだ。お前が望むがままの世界だ。
誰も理不尽に傷つくことのない、平和な世界。それを共に創り上げようではないか。
大したヤツだ。流石、神々に喧嘩を売るだけはある。
あの戦でもこうして配下を増やしたのだろうな。
ここまで飴玉をぶら下げられて、飛びつかずにいられる者はそういない。
だが、良いのか。
その力を得たら、俺は間違いなくオークを滅ぼすぞ。
オークだけじゃない。ゴブリンも、ワーグも、トロルも。お前が創造したありとあらゆる闇の生き物を、一匹残らず。
お前が我が下につけば、あのような出来損ないども、必要はない。
俺の問いかけに、影はにべもなく答えた。
まったく。アイツら化け物も可哀そうだ。まさか創造主からそんなことを言われるとは。
まあ同情はしないけど。
どうだ、ルシオ。儂に下れ。さすれば、今の想像は現実となる。
催促するように影が囁く。
まるで俺の返答はもう決まっているかのような声だ。
もちろん、俺の返答は決まっているのだが。
どうした、何を悩む。
答えずにいる俺に、影が焦れたように言う。
悩むことなどないではないか。
憎しみを思い出せ、ルシオ。
オークがお前の母に何をしたのかを。教えてやっただろう。
お前の母は大した女だった。
オークどもの拷問にも、悲鳴一つ漏らさずによく耐えた。
だが、最期は無残なものだ。
凌辱され、オークの子を孕み、自らが産み落としたその子の餌となり、糞になった。
これは真実だ。一度見せてやっただろう。
気味の悪い猫なで声とともに、脳裏に断片的な映像が流れ込んでくる。
暗い洞窟の底。横たわる血塗れの女。それを取り囲むオーク。下卑た笑い。悲鳴。歓喜の咆哮。絶叫。見るに堪えないこの世の地獄。
影が俺の心に直接流し込んできたこの映像は、たしかに真実なのだろう。
嘘ではないのだろう。
俺の母は、こうして死んだのだ。
どうだ、許せぬだろう。
その怨嗟はたとえオークを滅ぼしても、到底消し去ることができぬのだろう。
だからお前は望んだ、世界など焼け落ちてしまえば良いと。
そうだ。焼き落としてしまえば良い。
それが出来るだけの力を儂が与えてやろう。
世界を焼いて落とす、か。
そうだ。貴様はそう望んだではないか。
その望みを叶えてやろうといっているのだ。
呟いた俺に、影が嬉しそうに声を震わせた。
確かに、そう望んだこともある。
父の戦死を知らされたあの日。母がオークに連れ去られたと聞いたあの夜。
夢に出てきたコイツから、さっきの映像をまざまざと見せつけられたあの時。
俺はオークだけではなく、この世界そのものを恨んだ。
奴らが存在していることを許容しているこの世界を。こんなにも酷いことの起こるこの世界を。焼け落ちてしまえばいいのにとすら考えた。
だが。
あのな。そりゃいったい、何年前の話だと思ってるんだ。
心底から呆れ果てながら、俺は影に答えた。
知らないらしいから教えてやるが、貴様ら化け物と違って人間は成長するんだ。
思春期にも満たねえようなクソガキが弄んだ世界滅亡計画なんて馬鹿な妄想を本気にするなんて、痛いヤツだな。お前は。
思いきり嘲るように言い放つ。
貴様ッ
それを聞いた影の声から、余裕が一気に消えた。
何が貴様、だ。馬鹿野郎。
鋭く刺すような怒りの気配に気圧されることもなく、俺は吐き捨てる。
確かに俺はオークが憎い。奴らを滅ぼせるのなら、なんだってしてやる。
だがな。そのためにてめえの手なんか借りねえよ。
分かってないようだから言っておいてやる。
俺はあの化け物どもと同じくらい、てめえのことも恨んでるんだ。
そもそも、この世にあの化け物どもを産み出したのは他ならぬ、この悪神なのだ。
全ての原因でありながら、どうして自分が恨まれていないかのように、俺に話しかけられるのか。
貴様……人間どもに英雄と囃し立てられて、思い上がったか。
まさか。俺は英雄じゃない。
忌々しそうな影の声に、鼻を鳴らして応じる。
俺は英雄にはなれない。
人を救うためでも、誰かを守るためでもなく。
ただ恨みのある敵を殺すためだけに戦っているだけなのだから。
一族の誓いすら、俺にとってはそのための言い訳に過ぎないのだ。
全ての弱き者に代わって剣を執り、大陸安寧のため、諸国万民の盾となる。
偉そうな誓いの文句を繰り返し口にするのは、そうでもしないと自分が何者なのかを見失ってしまいそうになるからだ。
そんな俺が英雄になどなれるはずがない。
だが、それでいいと思っている。
決意は鈍る。義務感は摩耗する。信念はやがて風化する。
しかし、恨みはつのる。
だから俺は、一生こいつらと戦える。
人間の分際でのぼせ上りおって、我が下僕には貴様のような小僧では想像もつかぬような恐るべき存在が数多と……
だったら。
脅すような声を遮って、おれは叩きつけるように言った。
「ゴチャゴチャいってねえで、さっさとその下僕とやらを俺の前に連れてきやがれ」
そうすれば、一つ残らず滅ぼしてやる。
宣言した俺に、影が黙り込む。
よかろう。
やがて、世界の果てから薄暗く、空虚な声が響いてきた。
後悔するぞ。ルシオ・アルバイン。
貴様も、あのエルダルシオンのようにな。
予言めいた言葉とともに、再び世界が暗転した。
叩きつけられるように、意識が現世へと帰還する。
弾かれるように目を開けると、目の前に巨大な鉄塊が迫っていた。
『貴様っ! よくも主を愚弄したな!!』
主が主なら、下僕も下僕だ。
あの程度の煽りに簡単に激昂して、よくもまあ我は世界の支配者などと口にできるものだと思った。
仰向けに倒れている俺に、ウータヴァルがメイスを振り下ろす。地面を転がってそれを避けてから、反動をつけて立ち上がる。殴られたこめかみがずきずきと痛むが、気にするほどではない。
「人がガキの頃の恥ずかしい過去をあげつらって悦に入ってる馬鹿を教育してやっただけだろ」
ウータヴァルから距離を取って、柄だけを残して砕けたナイフを放り捨てて、精霊鋼の剣を構えなおす。
さて、仕切り直しだ。
とはいっても、状況は何も変わっていない。
草原を埋め尽くす黒い軍勢に、怒り狂った黒鉄の巨人。
変わったのは、俺の心境だけだ。
先ほどまでは命と引き換えに出来るだけ多くの敵を道ずれにするつもりだったが、今は違う。
敵の親玉相手にあそこまで大口叩いておいて、負けましたではいかにも格好がつかない。
死んで奴らを喜ばせるのも癪だ。
こうなったら、何が何でもこの幽鬼をここで滅ぼしてやる。
そう決意して、ウータヴァルへと向き直った時だった。
どこからか、高らかな角笛の音が響いてきた。




