早すぎる決断
エドワルドから回ってきた書類に、領主は目を落とした。
「……またか」
乾燥パスタ工場の、再度の増築提案。
机の上で書類を軽く整え、静かに読み進める。内容は簡潔で、数字も控えめだ。
だが、そこに書かれている前提が、すでに“普通”ではない。
今年は、まだ春だぞ……
乾燥パスタの加工は、本来、収穫後から冬にかけてが中心だ。それが、今年は春に入っても止まっていない。
仕事があるのは、悪いことではない。
むしろ、領民にとってはありがたい話だ。
だが――
「……偏りすぎるのも問題だな」
加工に人手を割きすぎれば、他が疎かになる。それは領主として、避けねばならない事態だ。だが、思い返せば理由は単純だった。
前回、確かに増築はした。
工場は広くなった。人も増やした。設備も、以前より整っている。
それでも――追いつかなかった。
収穫量が、それ以上に多かったのだ。
冬の間、加工場はほぼフル稼働だった。
昼夜を問わず、回し続けた。
それでも、終わらなかった。
つまり……
今も加工が続いているということは、去年と同じ量が入ってきても、この時期まで終わらない、ということだ。
それはもう、偶然ではない。
構造的に、処理能力が足りていない。
領主は、深く息を吐いた。
ならば……
答えは、出ている。
「早めに手を打つしかない、か」
増築と一言で言っても、すぐには終わらない。土地の調整。資材の手配。人の配置。
どれも、時間がかかる。
収穫が始まってからでは、遅い。
「……エドワルドは」
書類を指で叩きながら、領主は小さく笑った。
「相変わらず、早すぎるところを見ているな」
だが、その“早すぎる判断”に、これまで何度助けられてきたか。
数字が出てから動くのは、簡単だ。
だが、数字が出る前に動けるかどうか――
それが、領地を守る者の差だ。
「よし……」
領主は書類をまとめ、決裁印を手に取った。
「増築、進めよう」
まだ春だ。だが、今年は――もう、春の顔をした年ではない。
静かに、だが確実に。領地は、次の段階へ進み始めていた。
領主は、机の上に並ぶ別の書類にも視線を移した。王都向け備蓄分。
そして、軍向けの定期納入分。
売り先は、すでに決まっている。
数量も、条件も、価格も――すべて確定済みだ。ここまで来ているなら……
加工した物が余る心配は、ほとんどない。
現金化の目途も立っている。
備蓄として回す分も、すでに計画の中に組み込まれている。
「安定、か……」
ふと、その言葉が頭をよぎった。
収穫が安定し、加工が回り、売り先が決まっている。
これはもう、“試行”の段階ではない。
ここから先は、守りではなく、前進だな。領主は静かに頷いた。これ以上、様子を見る理由はない。むしろ、躊躇する方が危うい。
「先に進んでも、問題はない」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
領地は、すでに動いている。
止める理由は、どこにもない。
……エドワルドの言う通りだ。
書類の端に、追加の指示を書き込む。
工場の拡張は、段階的に。だが、初動は早く。人員の手配も、今から進める。
この判断が、数年後どう評価されるかは分からない。だが少なくとも――
「遅すぎた、とは言われまい」
領主はそう確信し、筆を置いた。
こうして、領地はまた一歩、
“戻れない地点”を越えたのだった。




