静けさの中に残る影
ここ最近、これほど何も起きない日々を過ごせているのは久しぶりだと思う。
朝は特に急ぎの報告もなく、村からの使いも少ない。加工場も害獣対策も、今は回り始めた歯車が自分で動いている。
――平穏だ。
だが、こうして落ち着いてしまうと、逆に胸の奥がざわつく。
何かを忘れているのではないか。
やるべき事を見落としているのではないか。
ふと、前世の同じ時期を思い出そうとする。
……何をしていた?
思い返してみれば、特別な事など何もしていなかった。ただ流されるように日々を過ごし、先の事も深く考えず、惰性で時間を消費していた。「明日が来るのが当たり前」だと、疑いもしなかった。
――だから、ああなった。
今は違う。ここでは、自分の判断一つで未来が変わる。作物の量も、食料の備蓄も、武器の在り方も。守れるものがあり、守る責任がある。
それでも、不安は消えない。
本当にこれでいいのか?
他に、やり残している事は無いのか?
備えは十分か?
考えれば考えるほど、答えは出ず、胸の奥に黒い靄が溜まっていく。
そして――たまに、夢を見る。
あの最後の光景だ。
音。叫び。逃げ場のない圧迫感。そして、視界を覆い尽くす光。
目が覚めた時、背中に嫌な汗が張り付いている。心臓の鼓動がやけに大きく、しばらく動けなくなる。
もう終わったはずなのに。
ここでは起こらないはずなのに。
それでも、あの記憶は消えない。
だからこそ、立ち止まってはいけないのだと思う。
今は静かでも、世界は常に動いている。
何も起きていないのではなく、起こさないように抑え込めているだけだ。
――大丈夫だ。
――今は、まだ。
そう自分に言い聞かせながら、窓の外に広がる冬の空を眺める。
白く冷たい空気の向こうに、確かに続いている未来を信じるために。
静けさの中で、エドワルドは一人、考え続けていた。
そうだ。
考えてばかりでは余計に不安が膨らむだけだ。
たまには――いや、戻ってきてから殆どしていない。
剣の練習でもするか。
庭の端、雪の残りがまだ消えきらない場所で木剣を握る。
冷えた空気が肺に刺さる様だが、身体を動かせばすぐに温まるはずだ。
ふん!ふん!
……。
やはり、しっくりこない。
腕が短い。足も短い。間合いがどうしても詰まる。前世の身体感覚が頭に残っている分、余計に違和感が強い。
こればかりは、どう足掻いても今の体格では限界がある。理屈では分かっているが、思わずため息が漏れる。
その時だった。
「……珍しいな」
背後から声がして振り返ると、そこには兄が立っていた。腕を組み、面白そうにこちらを見ている。
「お前が剣の練習なんて?」
「寒いので、身体を動かせば温まるかと思って!」
思わずそう答えると、
兄は一瞬きょとんとした後――
「ぷっ!」
噴き出した。
「剣が上手くなるためじゃないのかよ!お前は本当に発想が少し斜めからだな?」
「……否定はしません」
剣を構えたまま肩をすくめる。
兄は笑いながら近づき、軽く木剣を指で弾いた。
「まあ、無理に剣を振らなくてもいいだろ。
お前は……剣より頭を使う方が向いてる」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
確かにそうだ。自分は剣で前に出る役ではない。考え、備え、選択する役だ。
それでも――こうして身体を動かし、誰かと言葉を交わすだけで、胸に溜まっていた靄が少しだけ薄くなる気がした。
「たまには悪くないな……」
そう呟くと、兄は不思議そうな顔をしながらも、「だろ?」と短く答えた。
冬の冷たい空気の中、エドワルドは久しぶりに、何も考えず剣を振り続けた。




