備える理由
食料増産計画は、概ね順調だった。
小麦の作付面積は維持され、肥料の配分も安定している。
硬豆は失敗を踏まえ、苗床で育ててから畑へ移す方式へ切り替えた。
じゃじゃ芋は、父の判断で放棄地を再生し、着実に面積を広げている。
そして、乾燥パスタ。
備蓄はゆっくりだが確実に積み上がり、加工場も一度拡張された。
酒造は、想定以上の売れ行きで勝手に回っている。
――にもかかわらず。
……不安が、消えない。
エドワルドは、書庫の一角で古い帳簿をめくりながら、小さく息を吐いた。
「このまま行けば……来年は“大豊作”だ」
領内豊作、ではない。
“領内大豊作”。
数字の伸び、肥料の効き、土の回復速度。
どれを取っても、ズレはあるが方向は一つだ。
問題は……吸収できるか、だ。
小麦酒は、確かに消費される。
だが量としては、誤差に近い。
酒は嗜好品だ。
食料ほどの“底”はない。
となると、やはり……
答えは、ほぼ決まっている。
乾燥パスタへの加工。
だが、現状の加工場では限界がある。
増設したとはいえ、処理能力はせいぜい一・二倍程度。
欲しいのは……一・五倍。
倍とまでは言わない。
だが、来年を安全に越えるには、それくらいは必要だ。
問題は――
「どうやって、父上を説得するか、だな……」
エドワルドは、椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
父は数字を見る人だ。
結果が出ている間は、慎重だが前向きでもある。
だが、“予測”には慎重だ。
しかも今回は、不確定要素が多い。
未来の記憶。
ズレ。
過去と同じになる保証は、どこにもない。
「……だからこそ、材料が要る」
エドワルドは、再び帳簿に視線を落とした。
古い収穫記録。
天候の推移。
領内人口の増減。
ページを繰る指が、ある一文で止まる。
「……これだ」
そこには、こう記されていた。
――前年収穫量より一割以上増加した年は、その後二~三年、高水準を維持する例が多い。ただし、三年目以降、急激な減収に転じる傾向あり。
……完全に一致、とは言わない。
だが、“傾向”としては十分だ。
さらに、別の資料。
――暖冬の翌年は、害虫の越冬率が高く、翌々年に影響が出る場合あり。
今年の冬は……確かに、暖かい。
不確定だ。
どれも断定できるものではない。
だが。
父上は、“数字の先”を見る人だ。
十八%増。
加工拡張。
王都への限定納品。
流れは、既に動いている。
なら……今しかない。
考えても、結論は変わらない。
エドワルドは、帳簿を閉じ、立ち上がった。
「……行くか」
執務室へ向かう廊下は、いつもより静かに感じられた。
不安はある。確信はない。
それでも。
備える理由は、ある。
扉の前で、一度だけ深呼吸する。
「父上。少し、お時間を頂けますでしょうか」
声は、思ったより落ち着いていた。
扉の向こうで、椅子が軋む音がする。
「……入れ」
エドワルドは、静かに扉を開いた。
未来は、まだ形を持たない。
だが、手を伸ばさなければ、掴めもしない。
――備えるという選択は、臆病ではない。
それを証明するための話が、今から始まる。




