溢れる実りのその先で
父上との話し合いを終えてから、備蓄と加工に追われる日々は、気付けば一年を越えていた。
倉庫は増設され、加工場は常に人が動いている。小麦は粉に、粉はパスタに。果実は酒に、保存食に。
「余る前提」で動くなど、かつての我が領では考えられなかった光景だ。
そして今年も、予想通りだった。
秋が訪れ、小麦の刈り取りが始まる。畑はどこも黄金色に染まり、他の農作物も例外なく驚異的な収穫量だ。
酒造場では樽が足りないと嬉しい悲鳴が上がり、領内は完全に好景気。人々の顔は明るく、街には活気が満ちている。
――だが、それが「良い兆し」だけだとは、もう思えなかった。
我が領は開墾を進め、備えを整えた上での大豊作だ。
それに加えて、父上はこの一年、商人たちと頻繁に情報を交わしていた。
市場の動き、王都の反応、他領の収穫状況。
その一端を、俺も商人から聞かされている。
近隣領も、さらにその先の領地も、今年は軒並み豊作らしい。
――つまり、供給は溢れる。
いよいよ始まる。
小麦の大暴落が。
実りは人を救う。だが、行き過ぎた実りは価値を奪う。
備えの無い領地から、順に飲み込まれていく。そしてその波は、必ず我が領にも届く。
ここから先は、収穫の話ではない。
選択と判断の年が、始まろうとしていた。
最初に異変が起きたのは、我が領から遠く離れた地だった。
そこは元々、小麦の収穫量が多い土地ではない。気候も土も安定せず、平年作でも自給で精一杯――そんな地域だ。
その地で、小麦の価格が崩れた。
理由は単純だった。周囲の豊作地から安価な小麦が流れ込み、地元の収穫物が売れなくなったのだ。
少しでも現金に換えようと、値を下げる。
値を下げれば、さらに買い叩かれる。
それが連鎖し、気付けば相場は底を抜けていた。
噂は瞬く間に広がった。
「あの地で小麦が暴落した」
「もう利益が出ないらしい」
「今年はどこも同じだ」
商人たちは敏感だ。
一つの失敗は、次の警戒を呼び、警戒は更なる売り急ぎを生む。
それはやがて噂から確信へと変わり、王国全体を覆っていった。
まだ、我が領の市場は静かだ。
だがそれは、嵐の前の静けさに過ぎない。
波は、必ずこちらへ来る。
問題は――その時、どれだけ備えられているか、だ。
静かな防波堤。
父上の判断は、驚くほど早かった。
商人から最初の情報が届いた、その瞬間だった。
「領内に告ぐ。小麦の直接買取を行う」
布告は即座に出され、役人と倉庫が動き出した。
農家たちは迷うことなく小麦を売り渡した。
価格は、十分に納得できるものだったからだ。
やがて、農家たちの耳にも小麦暴落の噂が届く。
だがその時には、既に彼らの小麦は手元に無かった。
「売っておいて良かったな」
「助かった……」
そんな声が広がり、我が領の空気は不思議なほど落ち着いていた。
混乱も、不満も、焦りもない。
まるで何事も起きていないかのように。
だが、水面下では別の動きが始まっていた。
商人から次々と情報が入る。
各地の倉庫は小麦で溢れ、売り先を失った在庫が山のように積み上がっている、と。
そこで父上は、次の一手を打った。
「我が領が、小麦を買う」
もっとも、無制限ではない。
大口で市場を刺激することは避け、多数の商人、多数のルートを使い、静かに、しかし確実に買い叩いた。
やがて、外から流れ込んだ小麦が、雪崩のように領内へ入ってくる。
だがそれらは市場へは出ない。
全て、加工場へと直行した。
乾燥パスタ、保存食、加工品――
加工場は昼夜を問わず稼働し続ける。
それでもなお、大型倉庫には余裕があった。
「まだ行けるな」
父上はそう判断し、さらに買い込みを続けた。
外では小麦が重荷となり、内では小麦が武器になる。
その差は、これまで積み重ねてきた備えの差だった。
嵐は始まっている。
だが少なくとも、我が領は――
静かな防波堤の内側にあった。
我が領は、ひとまずは乗り越えた。
そう思い、胸を撫で下ろすエドワルドだった。
だが、流れは止まらない。
領外からの小麦は、なおもこちらへ流れ続けていた。
売り先を失った小麦が、少しでも値の付く場所を求めて集まって来る。
商人たちは疲れた顔で報告を持って来る。
「まだ来ます」
「次も、その次もです」
そして、ついに。
買い取られた小麦は、大型倉庫を満タンにした。どの倉庫も、これ以上は入らないという所まで詰め込まれている。
人が安堵するには、余りにも多すぎる量だった。
「……想定以上だな」
エドワルドは、そう呟く。
備えは間違っていなかった。
判断も早かった。
それでも、この量は――
この先に待つものが、まだ終わっていない事を告げていた。
嵐は、一段落したのではない。
形を変え、次の段階へ進んだだけなのだ、と。




