第十一話
翌朝。リットは驚くほどスッキリと目覚めていた。
視界は数回の瞬きでピントが合い。鼻は冴え渡り、朝露に濡れた草花の臭いを嗅ぎ分ける。羽が生えたかのような体の軽さに、ベッドから出るのに微塵のためらいも感じられなかった。
リットが久しぶりの健康的な目覚めに戸惑っていると、木桶を持ったデルフィナが家に入ってきた。
「よく眠れたか? ここは宿ではないからな。腹が減ったのなら、自分でどうにかしてくれ。水くらいなら馳走してやるが」
デルフィナはお玉で木桶の中の水をすくって見せた。
「もらうかな」
リットはコップに入れてもらった水を飲みながら部屋を見渡した。この家は一室しかなく、広いとは言えない部屋なので、簡単に見回すことが出来る。
ここにはグリザベルの姿がなかった。朝が弱いので、いつもならまだ毛布にくるまって朝日から逃げているはずだ。
高笑いが聞こえてくると、リットは声のする外へ出た。
そこではグリザベルが軽い体操をしているところだった。
「リットか。随分遅かったではないか。我ならとうに起きて、この通り――運動までしておる」
グリザベルはぐるぐると肩を回しながらフハハハと笑った。
「いったいなんだってんだ……」
「精霊の力らしい。この場所は最も精霊のバランスが取れている地で、それは精神や身体にも影響するとのことだ」
「ますますわかんねぇよ……」
事実は理解できないが、心身ともに快調というのは紛れもない事実だった。
「暑ければ涼を取り、寒ければ暖を取る。それだけのことだ」
デルフィナはまだ肌寒いだろうと、お茶を乗せたトレーを持って現れると、それを地面に置いて自由に飲むように言った。
「それがわかんねぇって言ってんだよ」
リットはお茶が変な色をしていないことを確かめると、カップに注いだ。
「難しく考えるな。体を温めるのに茶を飲むのか、それとも火にあたるのか、どちらも同じということだ」
「結果が同じなら、過程はどうでもいいってことか?」
「そのとおりだ。よくわかっているではないか。精霊学の基本は『恩恵』だ。恩恵というのは幸福や利益。つまり、四大元素の理から外れたものになる」
まるでディアドレが作ろうとした『幸』のエネルギー。五つ目の元素である『エーテル』のようだと思った。それも、ウィッチーズ・カーズという悪影響のないもの。
おとぎ話に出てくる都合良いアイテムのようだ。その効果が微々たるものでなければだが。
「ずいぶんちんけな幸せだな」
「寒い時に暖を取れるというのは本来幸せなことだ。飲みたい時に水が飲めるのも、幸せなことだと思わないか?」
言われてリットはあることを不思議に思った。ここは孤立した場所だ。橋もなく、崖を渡るのは不可能。後ろの切り立った崖を登るのも、デルフィナの細腕じゃまず無理だろうと。
そもそも生活に必要なものはどうやって入手しているのかなど、謎は深まるばかりだ。
食料もハーブは育てているが、野菜や果実などを育っている様子はない。
「精霊師とはなにかを見せてやると言っただろう。簡単なことだ。望めばカップは水で満たされる」
デルフィナは空のカップを見せるように持つと静かに目をつぶった。
それはリットは固唾を呑んで見守っていたのだが、デルフィナはこらえきれず唇の隙間から笑いを漏らした。
「冗談だ。カップが急に水で満たされれば、それは魔女の仕業」
デルフィナの言う通りだと、騙されたリットを見てグリザベルも一緒になって笑っていた。
「……精霊師ってのも魔女と同じで女尊男卑なのか?」
「そうムッとするな。少しからかっただけだ。ついてこい。精霊師の力を見せてやろう」
デルフィナは同意を取らないまま背を向けて歩き出した。絶対についてくるという確信があったからだ。
案の定リットもグリザベルもその後を続いていった。
デルフィナが足を止めたのは崖の手前だ。目の前には木々が生い茂る普通の山があるのだが、崖の幅はとても飛び越えられる距離ではない。有翼種族でなければ届かないほど離れている。
「いきなり信じろというのも無理な話だ。ただ見ていればいい。後の判断は各々に任せよう」
言い終えるのと同時に、デルフィナはなにもない崖の空間へと踏み出した。散歩にでも出かけるような、軽やかな一歩。
リットとグリザベルは思わず、落ちていくデルフィナの服の裾を捕まえようと踏み込んでいた。
しかし、それは杞憂に終わる。
デルフィナは見えない橋を渡るかのように崖を渡りきったのだ。
そして、振り返ると「どうした? ついてこないのか?」とイタズラに成功した子供のような笑みを浮かべた。
「……ついていかねぇのか?」
リットが崖を覗き込みながら言った。
崖下に川はなく、落ちたら助かる見込みは一つもない。
「お主こそ……臆しているのか?」
グリザベルも目の前の現象が理解出来ないと二の足を踏んでいた。
「そりゃな……落ちたら死ぬってわかってるんだぞ。鼻くそほじりながら渡れるバカにはなれねぇよ。オレにはまだ考えるって力が備わってるからな……」
「精霊の力だぞ。一度体験しているお主なら、思い切りもつくだろう。それとも、デルフィナをいつまでも待たせておくつもりか」
グリザベルが言っているのは今回のサラマンダーとノームの件ではない。弟子から聞いているウンディーネの件だ。ウンディーネによって作られた水の道は、まさしく精霊の力を使ったものだからだ。
「水があるなら泳いで渡るって考えるのが普通だ。わざわざ空中を歩く方法を考えるのは、よっぽどの暇人だぞ。浮遊大陸だってな――」
リットは言葉を止めた。もし本当に目の前に足場があるのならば、浮遊大陸で天使が使っている『光の階段』という移動方法と同じようなものだと思ったからだ。
「どうしたのだ?」
グリザベルは急に黙ったリットの顔を覗き込んだ。
「闇に呑まれた中は精霊が存在しないって言ってたな」
「その可能性があるという話だ。憶測の域を過ぎん」
「もしかしたら、それは当たってるかもな」
闇に呑まれる現象というのは、浮遊大陸では『闇の柱』と呼ばれていた。そして、光の階段は闇の柱が立つ場所ではかけらないという。つまり、精霊の力が及ばない場所だという可能性が高い。
リットは片足を空中に投げ出してみた。渡る気になったわけではなく、足場が光るか試してみたのだ。
光の階段は雲が濃い日や夜にならないと光が見えない。太陽が出ていると、輝きが負けてしまうからだ。
そしてリットが思った通り、影の代わりに僅かだが輝きを見せた。リットはそのまま慎重に一歩目を踏むと、足の裏に硬い感触を感じた。足音が響かないことも考えると、やはり天使が使っている光の階段だろうと。
リットはデルフィナが歩いた通りまっすぐ歩いていくと、たどり着いた地面で深く息を吐いた。
「最初に説明しろよ……光の階段だって」
デルフィナは「ほう……」と驚きに目を丸くした。「どうやら、私が思っている以上に様々な世界に触れているらしいな。素晴らしいぞ」
「アンタらの先人の魔女のせいでな」
「ディアドレか……。あれも精霊の領域に手を出した愚か者の一人だ。精霊の力を使いこなそうなどと……」デルフィナは瞳に軽蔑を浮かばせた。「――まぁいい。精霊の力を使う説明をするには。体のことを知らなければならない。一つは我々人間や獣人のように魔力の器が小さい体のこと。次に天使や妖精のように魔力の器が大きい体のこと。最後はウィル・オ・ウィスプのように精霊体と呼ばれる体のことだ。気になることがあるなら、どんどん聞け」
いつまでも渡ってこないグリザベルを待ってる時間が惜しいと、デルフィナは背を向けて歩き出したのでリットはそれに続いた。
結局、デルフィナが持ってきた水というのは、山にある泉から汲んだものだった。
精霊の力というのは光の階段のことであり、四精霊のうちシルフの力が強く働くと起こせる力ということだ。
魔女というのは精霊の力を勝手に使うので色々な成約がある。魔法陣を使うのはそのためで、ウィッチーズ・カーズという現象は力を使う代償だ。
しかし、天使というのは精霊の力をダイレクトに使うことが出来る。妖精も同じだ。リットと馴染みの深い妖精のチルカも風の力を使い自由に飛び回っている。
その力の使い方は様々で、天使族は妖精のように小回りがきくような飛び方に使うのではなく、シルフの力を光の階段というものに使っている。
精霊体というのはエネルギーそのものが精霊の力という種族で、リットの妹であるウィル・オ・ウィスプのチリチーのように、体の炎は消えることがなく様々な使い方もできる。
そして、精霊師というのはデルフィナが勝手に名乗っているものであって、漂う精霊の力を感じ取り、バランスを整えることで精霊の力をわずかばかり貰い受けるというものだ。
デルフィナの話では積み木のような感覚ということだった。毎回配られる形の違う積み木を使い、瞬時に適した形を作る。そうして力を使うのだと。
貰い受ける力はわずかばかりというが、精霊の力は強大なものであり扱うのは難しいということだ。
「精神面が幼いものには到底無理だな」
泉の帰り道もデルフィナはリットに精霊の力について説明をしていた。
リットも質問を続けるせいで、話が止まらないからだ。
「人間ってのは器が小さいんだろ。魔女も同じだ。精霊の力なんか貰って大丈夫なのか?」
「言う慣れば魔力のコートを借りているようなものだ。いくら立派なコートを着ていようが、着ただけで肝心の中身が変わることはない。そして、そのコートも時間の経過とともに少しずつ消えていく」
「つまり精霊の力っていうのは、常に変化するってことか?」
「そうだ。飲み込みが早いぞ。それは精霊自身も同じこと。精霊を入れるゴーレムというのは、その変化を極限まで少なくする必要がある。そうすることにより、魔力は物理として発散される」
来た時と同じく光の階段を使い家まで戻ると、デルフィナは今の話をグリザベルにも改めて話した。
「そして、ノームを入れるための土は浮遊大陸のものがいいだろう。浮遊大陸は天使が力を使う影響か、シルフの力が強い。反するノームの力は、精霊のバランスを取るためにぴたりと吸い付くだろう」
「ふむ……ならば、必要になるのは浮遊大陸の土か……」
グリザベルは難色を示した。浮遊大陸の土を手に入れるのが難しいことを知っているからだ。
浮遊大陸は新しい土地が地上から打ち上がってくることがなくなってしまったので、年々面積が減っていっている。
今ではグリム水晶の採掘さえ出来ないので、土を持ってくるというのは違法なことになっている。
「案ずるな。浮遊大陸の土はここにある。元々はここで落とし種を育てる研究をしていた。その過程で浮遊大陸のことを多く知り、精霊という力に興味を持ったんだ。私も、そのゴーレム作りを手伝ってやろう」
リットとグリザベルがデルフィナに力強い言葉を貰っている頃。ノーラとマーは、ドゥルドゥの街でだらけきっていた。
「監視の目がなくなると、だらけの虫が……」
マーは木陰で先程まで読んでいた本を枕にしながら、ノーラが買ってきたパンを食べていた。
「よく食べ、よく寝ることがコツっスよ。自然に身を任せると、自然と良い考えが浮かんでくるってもんですよ。例えば生地の中にサラマンダーが入れば、美味しいパンが焼き上がるのかも知れませんし」
ノーラの言葉にマーはばっと上半身を起こそうとしたのだが、腹筋がないのと体が硬すぎるせいでまた上がり切る前に仰向けに倒れこんだ。
乱れた呼吸を整えながら「それ……面白いかも」と言った。
「本当にパンを作る気ですかァ? どうしてもと言うなら止めはしませんけど……弱っちそうっスよ」
「サラマンダーが入ることによって完成されるゴーレムを作るってこと」
「ほうほう……その心は?」
「サラマンダーが仕上げをするなら、それはもう自分にとって相性の良いものになるに違いない」
「たしかに。目玉焼きも、塩をかけるか醤油をかけるか……最後に自分で決めて食べるからこそ美味しいものっスからねェ」
「そゆこと。こんな良い考えが浮かぶとは……だらだらもバカに出来ない」
マーはゆっくり息を吐くと、二度寝返りを打って日陰へと移動した。
「次は旦那から預かったお金の友好的な利用法が考えつくまで、ダラダラしますかねェ」
ノーラはマーの隣に寝転がると、喉に詰まらせないようにパンをむしって小さくして食べた。
「ふかふかベッドは譲れない」
「私も美味しいご飯は譲れないっスよ。でも……その二つを取ると、一日にしてお金がなくなっちゃうんス。旦那達がいつ帰ってくるかわからないですしねェ……」
少し無言の間があり、鳥の声が大きく聞こえ出すとマーが寝たままの格好で手を打った。
「今度は私にいい考えが」
「やっぱりだらだらは効果ありますねェ。して、どうするんスかァ?」
「私達は今日ふかふかのベッドとほかほかのご飯の両方を手にする。そして明日からは、お師匠様の実家に厄介になると」
マーは何かあれば実家を頼れというグリザベルの言葉を思い出していた。
「いやー……私達最強のコンビかも知れないっスねェ」
ノーラとマーは固い握手をした。そして、それが合図かのように、二人共そのまま眠ってしまった。




