670話 さあ、帰る――のか?
「なんと……」
立彬の言いたいことが燕女史にも通じたようで、眉間に皺を寄せて絶句しているところへ、衝立の向こうから呉も顔を出した。
「では、早急に穴を塞ぎましょう」
呉もやはり塞ぐ方向で考えたようで、雨妹の脳裏に野猫の悲しそうな顔がちらついていると。
「そしてあの野猫とやらいう宮女ですが、洗濯仕事に戻りました。念のために、拘束せずともよろしかったのでしょうか?」
そこへ立彬が、このように敢えて野猫を咎めるような話題を挟む。確かにあの野猫はある一面で、皇后の寝所に忍び込んだ罪人とされても言い逃れできない立場である。そこを立彬が敢えて指摘したわけだが――
「口出しは不要です」
衝立の向こうから、皇后がきつめの口調でぴしゃりと釘を刺す声が響く。
「差し出口でございましたこと、謝罪いたします」
すると立彬はそう言って衝立の向こうから見えずとも、深々と頭を下げる。雨妹も意見するのを止めなかったことは同罪であろうと、合わせて頭を下げた。けれど頭を下げたところにある立彬の顔は、叱られたことを後悔するような表情ではなく、してやったりというものである。
――今の皇后様ってつまり、「野猫のことに構うのは許さん!」ってことだもんね。
きっと皇后は、あの野猫のことを他人にとやかくされたくはないのだろう。それはつまり野猫は皇后にとって、どうでもいい宮女の一人ではないということだ。それが確認できただけでも収穫であり、雨妹としても皇后と野猫の二人がどのような関係になるのか、この先の展開をワクワクして見守りたいところだ。
そんな雨妹の内心はおいておくとして。
皇后が軽食を食べ終えたところで、陳が改めて診察することとなった。運ばれて行く食べ終えた皿を観察してから衝立の向こうへ入り、しばらくしてから出てくる。
「皇后陛下は食欲があるご様子ですし、嚥下の際にもむせる事もなかったので安心しました」
陳が診察結果をそのように話す。
「薬は特に必要ないかと思いますが、お望みであれば気力を足すものをお出ししましょう。あとは心安らかに過ごし、今のように栄養のある食事をとり、たまに散歩などをすることが、真に薬といえましょうか」
この陳の診察結果に衝立の向こうは沈黙しているものの、呉がなにも反応をしないところを見るに、皇后から不満は出ていないのだろう。
「なにかあればまた呼びます。陳医師、ご苦労でしたね」
呉がそのように声をかけたことで、陳の皇后宮での仕事はこれにて終了だ。
「は、それではこれにて失礼します」
陳が帰りの挨拶を述べれば、陳のお供であった雨妹とその見張り役たる立彬もお役御免であり、陳と三人揃って頭を下げる。
「わたくしも御前を失礼いたしましょう」
ついでに燕女史も雨妹たちと共に帰る意思を示す。確かに余所の宮の女官である燕女史が、騒動の最中にある皇后宮に居座るのは良くないだろう。
「ええ、燕淑妃には皇后宮を気遣っていただいたことへの感謝を、よろしくお伝え願います」
「皇后陛下のお役に立てましたならば、我が主もお喜びでございましょう」
呉と燕女史がそのように言葉を交わし合った後。
「誠意を受け取りました」
皇后が短くそう言葉を寄越してきたことに、燕女史が衝立に向かって深々とお辞儀をした。
それから雨妹たちは、皇后宮から出るべく移動する。
「表の門には騒がしいであろうから、裏門を使う方がいいだろう」
立彬がそう言う通り、表門には刑部関係の人員やら野次馬やらが集まっているに違いない。そんな中で皇后宮から出てくれば、「関係者です!」と自ら宣伝するようなものである。これに同意した燕女史も、雨妹たちと一緒になって裏門へと向かう。
ちなみに皇后宮を出てからの足だが、雨妹たちは皇帝一行に混じって皇后宮まで来たため、いつもの三輪車は持ってきていない。呉が軒車を出そうと提案してくれたが、それこそ関係者として悪目立ちするので断った。これがいつもであればここから歩いて帰るくらい平気であるし、立彬ならば急ぎなら馬でも借りればいい。
一方で燕女史はどうするのかというと、来る時に乗ってきた軒車は一旦返してあるそうだ。なので迎えを寄越すように燕淑妃宮まで伝言を頼むか、はたまた呉に帰りの足を手配してもらうかを選ぶところなのだが。
「面倒なので、歩いて帰ります」
四夫人付きの筆頭女官が徒歩を選ぶという選択をしていた。この人は通常の女官に比べて、見栄えを気にしない人なのである。これに立彬は驚きつつも呆れるという器用な表情をしていたが、生憎と雨妹にとって、この状況は計算通りなのである。




