666話 穴を見に行こう
馬の処遇についてはっきりと言ってもらえず、不満そうな野猫に対して口を開いたのは、ずっと黙してやり取りを見ているだけである父だった。
「少なくとも、皇后には悪いようにならぬ」
「……本当に?」
そう断言する父に、しかし野猫は疑う顔である。事態がこうなってしまった要因の一つが、皇帝と皇后の不仲による交流不足であるので、信用できないのもわかる。わかるのだけれども、野猫みたいにそれをはっきりと態度に出すものは稀だ。
――この娘の教育係って、誰だろ?
この事態を知れば肝を冷やすだろう。それとも後宮に来たばかりの頃の雨妹同様に、宮女内の都育ち対田舎者の争いに巻き込まれた末に放置されているのかもしれない。
なにはともあれ、この国で皇帝の言葉以上に重いものはないので、これで良しとしてもらう他はないだろう。
そして刑部から解放される野猫であったが、これで話が終わりなわけではない。
「まだ待て、お前にはあの穴の出口に案内してもらわなければならない」
そう述べたのは燕女史であった。確かに安全の観点から、あの穴を塞ぐのかどうかを決めなければならない。おそらく皇后の側から離れられない呉からこの件を頼まれていたのだろう燕女史に、立彬が待ったをかけた。
「それは私が行こう。燕女史は呉殿に伝える方が先ではないか?」
確かに、医官の陳と皇后を二人だけにはできないので、呉があちらに残っているものの、きっとどういう話になっているのか気を揉んでいることだろう。それに野猫が仕事中に見つけたのだから、きっと穴の出入り口は足場が悪い所であると予想される。燕女史の女官服では差し障りがあるかもしれない。
「あの、私も一緒に行きます。後で報告しますので!」
本来は太子付きの立彬だけでは問題があるかもしれないので、雨妹も立候補しておく。
「……では、お願いしましょう」
燕女史も立彬の意見をもっともだと考えたようで、雨妹たちに任せることで同意する。
というわけで、雨妹と立彬は刑部や父から離れ、野猫の案内で例の穴の出入り口へと向かうことになった。その道すがら、あれで一応緊張していたらしい野猫がさらにおしゃべりになるのだが。
「それでなぁ、皇后様がおらのことを『野山育ちの猫めが!』って言って、野猫って呼ぶようになったんだぁ~」
野猫が自らの呼び名の由来を話すのを聞いて、「へぇ~」と相槌を打ちながらも雨妹は首を捻る。
「あの、今のって、喜ぶところですかね? 罵倒されたのでは?」
「本人が嬉しいなら、良いのではないか?」
雨妹が疑問を口にすれば、立彬は「我関せず」の態度である。
――そりゃそうだけどさ。
案外皇后も罵倒したつもりなのに、本人が嬉しがったことに毒気を抜かれて、そのまま呼び続けているのかもしれない。
そんなおしゃべりをしながら歩いていると、やがて洗濯係が使っている井戸が見えてきた。そこは皇后宮の外れで、雑草は伸び放題だし、すぐ近くにある宮の敷地を囲う壁もぼろぼろな荒れ模様である。けれどどこの宮でも、隅の方の手入れが行き届かない区域は大体こんなものだ。
そこから雑草が酷い方に進んでいくのだが、獣道のように雑草が踏み固められているのは、野猫が毎日歩いた跡であろう。
「ほら、あれだぞ!」
ついに野猫がそう言って指差した先にあるのは、木の板の上に割れた石が乗っている場所だった。皇后の部屋に続く通路にしては、塞ぎ方が雑である。石と板をどかしてみれば、なるほどちょうど野猫がすっぽり入る大きさの穴が斜め下に向かって伸びていた。
―――これはかなり怖いな!?
雨妹はもう気持ちが強いという以前に、この中に「よし、入ってみよう」となった野猫の思考回路を疑ってしまう。穴を進んでいる間にこの出入り口が土で埋められたらどうするのか?
「どうかしているわ、この娘」
想像をして若干顔色を悪くする雨妹の中で、やはり皇后が付けた「野猫」というあだ名は、悪口である説が濃厚となる。
「……頭痛がする」
立彬までもが顔色を悪くするのは、きっと防犯面のことを想像したからだろう。こんな雑な穴で繋がっていたのに、皇后がよく今まで無事だったなと、雨妹もいっそ感心する。案外皇后は悪運が強い人なのかもしれない。その悪運が野猫を引き寄せたのだから、人生とはわからないものだ。
しかし皇后が縋れるのが、この穴からやって来る見知らぬ宮女たった一人だったとは。雨妹はそれを思うと改めて、後宮の闇を実感する。




