664話 野猫と皇后
とにかく、野猫は部屋の主からギャンギャンと言われている内容はいまいちわからずとも、態度からたぶん嫌がっているのかと予想する。穴を這ってきた上にわけわからない話をして疲れてしまった野猫は、腰に下げている竹筒の水筒から水をグビッと飲んで気を取り直したのだが、それでさらにギャンギャン言われる始末。挙句に相手はその水を寄越せと言ってきた。
「水くらいはあげようって渡したら、それも嫌な顔をされてさぁ。自分から欲しがったのにだよ?」
野猫は意味不明だと言いたそうだが、それに共感できる者はこの場にいない。
――本当に、知らないというのは最強だな。
怒っている人物を無視して水を飲むのもなかなかの態度だが、それで皇后へ普通に自分の飲みかけをあげてしまうのだから、怖いもの知らずだ。雨妹ならば、なまじ華流ドラマでの後宮知識がある分だけ、野猫のように思い切るには時間が必要であろう。
一方で皇后は背に腹は代えられなかったらしく、野猫の水筒から水を飲んだ後、明日から毎日同じ頃に、水を持って来いと命令をした。
「変なことを言うんだなって、最初思ったんだぁ」
そう言って笑う野猫にはその時、皇后が水を欲する意味が分からなかったようだ。
後宮は水に困らないように水路を引いたり井戸をあちらこちらに掘ったりしている。しかし皇后ともなれば、幼少の頃からお付きに世話をされて育ったであろうし、自ら井戸や沢から水を汲んで飲むことなどしたことがないはず。皇后は用意された水差しの水になにか混ぜられていないかと不安を持っていても、他で水を得る手段を持ち得ていないわけだ。
なにより、皇后の行動範囲に井戸があるはずもない。なにしろ水汲み仕事は下っ端が担う重労働なのだから、下っ端の活動範囲に井戸は設置されている。偉い人たちは、その下っ端が運んだ水瓶の水を使うのである。
そうした水場に触れずに生活する身分というのを、野猫は想像できなかったのだろう。
そんな常識のすれ違いはあれども、とにかく野猫はそれから律儀にそのお願いに近い命令を聞いて、毎日同じ時間に穴を這って、寝所の住人に水を届けることになった。この時注意されたのは一つだけ、誰か他に人がいる時は、穴から出てきてはいけないということだ。
こうして野猫が毎日通っていると、やがて他の人物が部屋にいるところに遭遇した。その人物というのが馬である。その馬が話しているのを聞いて、野猫はいつもこの部屋で会っている人物が皇后であることと、何故人がいる間は出てくるなと言われたのかを知ったのだ。
「あの馬め、皇后様をいじめていた!」
部屋をいつもあの煙でモクモクにするのも馬であれば、最初は丁寧な言葉遣いであっても、次第に皇后を馬鹿にするような言い方になっていく。その言い草が野猫の中で、里で家族と暮らしていた時に里長の娘がしていた態度と被った。
やれこの服は都の商人から買ってもらった物だとか、髪飾り一つ持っていないなんてみっともないだとか、とにかくこちらを馬鹿にすることが趣味みたいだったのが思い出され、野猫は非常に腹が立ってきた。ツンとした顔で聞き流している皇后にも腹が立つ。
やり返さないと相手はつけ上がるばかりだし、いじめられているんだとどうして誰にも言い付けないのかと憤慨し、まるで我が事のように怒る野猫に、皇后が言った言葉は。
『わたくしに、言い付ける相手などおらぬ』
そんな、なんとも寂しいものだった。
「可哀想に、皇后様は友達がいないんだぁ!」
説明しながら大いに涙ぐんで喚く野猫は、大変感受性が豊かである。
野猫と皇后の出会いがどんなものだったのか、これでわかった。皇后にとってそれは、野生動物との邂逅に近いものだっただろう。お互いの立場が想像できないくらいに離れていると、いっそ畏怖やら軽蔑やらを通り越し、互いが未知の生物に見えるのかもしれない。けれどこの野猫の存在が、皇后に良いものをもたらしてくれることを期待したくもある。
それにしても、雨妹には野猫の話を聞いて気になる点があった。それは、皇后が何故こうまで孤立しているのかということだ。いくら花の宴で処分者が大勢出たとはいえ、皇后の世話をする者は必要最低限は残されているのではないのか? そのくらいの気遣いは、父だってしているだろうに。
――皇后陛下って、皇太后派から受け入れられていないのかな?
だとすると、皇太后派の残党というのは想像以上に厄介かもしれない。




