656話 初めて知る
「ほぅ?」
その夢の中の人物が誰なのか、志偉は報告を思い出す。雨妹との出会いは、皇后にとって夢現の出来事であったようだ。
「失うことには慣れたと思っていたわたくしですのに、不思議と胸が熱くなりました」
皇后は自嘲するように笑い、そう零す。
確かに、皇后は失うことが多い人生であったであろうとは、志偉にも想像できる。
この女が皇太后から目をつけられ皇后となったのは、皇太后にとって扱いやすかったというのが全てだ。彼女がもう少し愚かであれば、あるいはもっと賢ければ、皇太后から選ばれなかったかもしれない。そうすれば平穏で退屈な、いち豪族の娘としてそこそこ幸せな結婚生活を送っていたであろう。そんな平穏な女としての人生を失ってまで皇后になれば、皇太后の言うがままに動かねばならない生活が待っていた。
その皇太后の手引きで産んだ皇子の大偉を皇帝へ据えようとしていたのは、皇太后に従っていただけということではあるまい。誰も信じることができない後宮で、大偉だけが皇后にとって縋るべき希望であったのだ。大偉の問題行動が行き過ぎて後宮にいられなくなっても、大偉は皇后の希望であり続けた。けれどその大偉は宮城を去り、苑州の大公になってしまった。
皇太后が失脚した今、それに伴って皇太后派の幾人かも尼寺行きとなり、皇后の周囲から急速に人が減った。そのように皇后の周囲にいた者が大勢転落した中で、皇后はその転落者たちを一切顧みなかった。唯一言い続けたのは、大偉を宮城に戻せということだけだ。
大偉の方も、母である皇后を心底憎んで離れたわけではあるまい。憎ければ殺してしまえばいいのだし、大偉にはいつだってそれができたであろう。
「その夢の言葉で思い出しました。わたくしは欲深いのです」
皇后の声が、志偉を思考から呼び戻す。
「どんなに贅沢ができても、誰かの――皇太后の言いなりに過ごすなんてまっぴら、嫌で嫌でたまりませんでした。しかし同時に、わたくしには皇太后を追い払う力がなかった。力のない者は、力あるものに蹂躙されるのが後宮です。そうならないためには己を捨て、従順さを身に着ける他はない」
皇后が「皇太后」と呼び捨てにしてみせたのは、志偉にはこれが初めてである。いつも皇太后に隠れるようにしていた女が、初めて見せた牙だ。
「ですが、己の怒りをなかったことにはできない。なのにその怒りを無理矢理捨てようとしたせいで、このような愚かで稚拙な手に嵌ってしまった。わたくしとしたことが、皇太后の名に萎縮する癖をつけていたなど……」
そう言って唇を噛む平凡な女は、平凡だからこそ皇太后の支配欲の餌食となってしまった。皇太后の機嫌を取るのに終始する言いなりの人形になり切るためだったのであろう、志偉が会う皇后は、いつも死人のような目をしていると思っていたのだが。
どうしたことであろう、今の皇后は生者の目をしている。野心を秘めた目が、痩せてしまった身体であっても一際輝いていた。
――そうか、このような女であったのだな。
野心は大事だ。戦場を駆け抜ける活力となるのだから。
「わたくしの上には誰も立たせない。わたくしは皇后です」
「そうか、好きにせよ。そなたは確かに皇后である」
皇后の野心の邪魔をしないことを宣言してから、ただ志偉はふと思い出したことを口にする。
「ただ酒はもうよせ、強くもないであろうに」
「それこそ余計なお世話ですこと――もう必要ありませんもの」
この志偉の忠告に、皇后はそう言って余所を向くのだった。
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