645話 仕掛けの下心
「……!?」
雨妹は悲鳴を上げそうになったのを、両手で口を塞ぐ。
究極に不穏な立彬の予想だが、雨妹はふと思い当たったことがある。もしこれを為したのが馬次席女官であれば、あり得なくもないのだ。
――そうだよ、側近の女官って、主に万が一のことがあった時の代役であることが多いんだった。
馬が呉の着任前から皇后宮の筆頭女官であったのか、それとも花の宴の後で大幅に人員削減した後に格上げされたのか、そこはわからない。けれど少なくとも、皇太后の覚え目出度い古参の女官であることは確かだ。となると、馬が元々皇后に成り代わるのを狙っていた可能性はあり、それは十分に凶行に及ぶ理由になるではないか。
かつて皇太后の近くで威張っていた連中はことごとく尼寺送りとなったのだから、身内の敵はほぼいない。一族の支持を上手く集めれば、皇太后が振るっていた権力すら自分の物になると、そう夢を見たとしてもおかしくはないだろう。
夢とは、自分の都合よく考えるから夢なのだ。皇后の立場や自分の立ち位置などを冷静に考えることができる人であったならば、このような愚かな真似はできないのだから。
背筋が寒くなり、しばし無言になった雨妹と立彬は、陳と燕女史の方へ視線をやる。
「皇后陛下のご様子はどうだったのだ?」
話が不穏な路線から逸れたので、雨妹も気を取り直す。
「大麻香の話をしている所で立彬様が戻ってきたので、陳先生からまだそこまで話は聞けていないのですが。皇后陛下のお身体の不調は、主に煙による害なのかもしれません」
雨妹も懸念していた一酸化炭素中毒である。あちらにも頭痛や嘔吐などの他に錯乱の症状があったはずだ。
「そもそも発見されたこの香は、燕女史や陳先生曰くかなりの粗悪品らしく、正規の伝手で仕入れたとは考えづらいようなのです。ですから、大麻薬としての効果は予想よりも軽い可能性があります」
「確かに皇后陛下のご様子は、あのケシ汁騒動で見た女とは違うな」
雨妹の説明を聞いて、立彬はそのことに思い至ったようだ。彼は宮妓の間で阿片が流行った際に阿片中毒の患者を実際に見ているので、違いがよくわかるのだろう。当初の想定程重篤ではないかもしれないとなって、立彬が若干ホッとした表情を見せた。
「では残る問題は、そのような粗悪品を誰が、一体どこから仕入れたかであるが、それは別の者が探るだろう」
「それはそうですね」
立彬の言うことはもっともで、この先を考えるのは雨妹の仕事ではない。脳内をちらつく馬の顔を、頭を振ってなんとか追い払おうとする雨妹であるが。
「雨妹」
皇后の側にいる燕女史から名を呼ばれたので、思考を止める。
「はい、なんでしょうか?」
「皇后陛下が呼んでおられる、こちらへ参れ」
その瞬間、雨妹は己の心音がドクンと鳴るのを感じた。
このような事態になって、皇后と面と向かうことになるかもしれないと、雨妹だって考えないわけではなかった。先日の遭遇のようにお互いに曖昧な立場のままではなく、お互いをお互いだと知ってから会うのは、また気持ちが違う。
このように雨妹が色々と考えている間に時間が経ったようであるが、おそらくは一瞬だったのだろう。
「雨妹」
立彬から肩に触れられた雨妹はハッと我に返り、身体に力が入っていたことに気付いて、大きく深呼吸する。
――大丈夫、いつも通りの私でいればいい。
「行ってきます」
雨妹は立彬をちらりと見てから、そう言ってにぱっと笑う。
「すぐ後ろにいるから、なにかあれば下がれ」
「……はい!」
背中を守ってくれる人がいるというのは、とてもありがたくて心強いものだ。一人で考えて想像して悲しみを励ましていた、辺境にいた頃の自分と今は違う。そのことを思い出し、雨妹は力強い足取りで皇后の横たわる寝台に向かう。
「皇后陛下にご挨拶いたします、張雨妹でございます」
そして燕女史の横に跪き、堂々と礼をしてみせた。




