642話 いよいよご対面
「この香り、たしかに例の香のものです」
燕女史が寝所に立ち込める煙から臭う香りに、険しい顔になる。やはり大麻の香で、雨妹たちの懸念は当たっていたのだ。
「これは、たまらんな」
「これをやった者の常識を疑う」
陳が手巾で鼻と口を覆いながらしかめ面で煙々しい室内を見やるのに、立彬も同様にして眉をひそめている。
「香がどうのっていう以前に、煙で具合を悪くしますって」
雨妹はマスク布を取り出して顔に巻きながら、そう零す。
こういうお香の煙も、火事同様に一酸化炭素中毒の原因になり得るのだ。前世でも特に宗教施設などでは香の煙で邪気払いをする行為がよく見られたのだが、だからこそ観光客が多い有名寺院などの香を焚く量が多くなる場所では、換気には気を配っていると聞いたことがある。
呉が寝所に入った時は、煙が落ち着いた頃合いを見計らっていたのかもしれない。そうでなければ、この状況を目撃したのなら、さすがに異常事態だと察したであろう。
「皇后陛下、失礼いたします」
そんな中で燕女史が一人、その煙たい香の中を平然と進み、寝台を覆い隠している天蓋のぶ厚い布をさっと避ける。その奥にいた姿の主は、やはり雨妹が以前掃除中に出会ったあの女性であった。
「皇后陛下、お痩せになられましたね。わたくしが異変に気付かなかったばかりに……」
燕女史が痛ましそうに声をかけると、寝台に寝ている人が微かに身体を動かす。
「燕女史か、久しく顔を、見ていなかったな」
皇后が掠れたか細い声を途切れ途切れに発したが、かなり具合が悪そうだ。
大麻は阿片と同様に患者に多幸感を与えるが、それと同時に不安感も与える。それらが連続して襲い来ることで気持ちは混乱する上に、身体的な不調も当然ある。皇后がここまで痩せているのは、大麻による食欲減退効果かもしれない。前世でも減量薬として出回っていた例があるのだ。
「コホコホッ」
皇后が咳をしたのに、陳がハッと我に返ると医者の顔になる。
「雨妹、換気だ。とにかく空気が悪い」
「はいっ!」
陳から言われ、雨妹は窓の方へ足早に向かう。
「この煙の元も排除しなければ」
「ならば、私が香炉を探そう」
続く陳の指示に立彬が動く。香炉の置き場所などは立彬の方が察せられるであろうから、雨妹もそちらは任せることにしよう。
こうして雨妹と立彬が寝台の周囲でバタバタと動き出したところで、燕女史が皇后に語り掛ける。
「皇后陛下、医師を連れて参りました。こちらは皇帝陛下がお選びになった医師でございますよ」
燕女史に手招きされ、陳が寝台の横に進み出て膝をついた。皇后が視線だけを陳に向けて、一瞬の沈黙の後。
「……そなた、我に触れる、のを許す」
皇后が目線だけで頷いてみせて、陳の診察を許可した。
――よかった、診察ができる。
これまでの関係性だと、皇帝が派遣した医師というものを拒否するかとも想像していたのだが、そういう感じでもないようだ。いや、思えば皇后は皇帝に表立って反発していたわけではないかもしれない。皇帝を意のままに操ろうとしていたのはあくまで皇太后であって、皇后はいつも皇帝の愛情を欲しているような行動をしてきた。それを最悪に拗らせたのが、雨妹と大偉の出生で揉めたあの事件だろう。
寝台の様子を横目に見ながらそんなことを考えていた雨妹だが、窓やら戸やらあらゆる場所を開けて回り、さらに煙を追い出そうと置いてあった布を振り回して空気をかき混ぜる。そうしていると、立彬が探し出した香炉を持ってきた。
「これだけ香炉を置いていたのであれば、道理で煙たいはずだ」
立彬が呆れているが、部屋のあちらこちらにいくつもの香炉を設置してあったようで、香を焚いた者の執念すら感じられる。
「これ、水をかければいいですかね?」
雨妹は前世でもこうした香やら線香やらを途中で消すなどしたことがないので、どうすればいいのかわからずに立彬に問う。
「臭いは消えぬし焦げ臭さが出るので、外に捨ててから水をかけるぞ」
立彬からそのような答えがあった。やはり水をかけるらしく、その処分は立彬がやってくれるとのことなので、雨妹は続けて己の使命を全うすることにする。つまり、大麻香の在庫捜索だ。
――ここからは、時間との戦いだ。
遠目にこの部屋から流れ出る煙が見えているかもしれず、そうなればそのうち人が駆け付けるかもしれない。だから邪魔が入る前に作業を終えなければならないと、雨妹は気合を入れ直す。ここに至れば雨妹に必要なのは、掃除係としての勘である。




