641話 ひとまず作戦成功
――あの辺にいるのは、たぶん皇后の世話をする人たちだろうな。
最初に発言した娘の方はもしもの際の捨て駒で、後から発言した方が馬の手先といったところか。けれどその人たちがここへ来ているということは、今中のどこかにいるだろう皇后の周囲には人がいない、もしくは人が少ないということである。
そのことに気付いたのは、雨妹だけではなかった。
「行くぞ」
立彬に促され、雨妹と陳はその背に隠れるようにしつつそろそろと、しかし足早に移動を始める。そして雨妹たちは誰からも止められることなく建物に入り、人のいない回廊を半ば駆けるように抜けていく。
――よし、侵入成功!
皇帝がああして大勢で押しかけて皇后宮を威圧する。それで大人しく従い道を開けるならばそれでよし、ごねるようなら膠着状態になっている隙に雨妹と陳で侵入するのが、最初から作戦であったのだ。
皇后宮内部の道順については立彬が一応頭に入れて来たようで、迷うそぶりを見せずに進んでいる。
「こちらです」
そしてある程度まで近付いたところで、前方にすいっと姿を現したのは燕女史だった。呉の手引きで、あらかじめ皇后宮で待っていたのだ。
「無事に入ることができたようですね」
雨妹と陳の姿を見て、燕女史が微かに安堵したように口元を緩めた。彼女がここにいるということは、この先の人払いはできているということだろう。
「はい、あちらではまだ両者の押し問答の最中です」
「そのようですね、誰もこちらに戻る気配がないですから」
雨妹が表の様子を説明すると、燕女史も理解していたように頷く。
「けれど、私はこちらの手段になるとは思いませんでした」
雨妹は正直な気持ちをそう吐露する。皇帝にああまで真っ向から逆らう勢力が未だにいるとは驚きである。これほどまでに大幅に人員整理をされて、特に皇太后一派は目の敵にされているのだから、少しは懲りて大人しくなっていると思っていたのだ。
この雨妹の意見に、口を挟んだのは立彬だった。
「長く権力の頂点に近しい場所で安穏としていると、危機意識が麻痺するものだ。だからああした連中が湧いてしまう。皇太后陛下周辺にいた者らこそが、それこそ下っ端までがまさにああした言動であったよ」
「なるほど、身に着いた習性はなかなか治らないということなのですね」
立彬の意見に、雨妹は「ふむ」と頷く。
そもそも後宮全ての者が立場を弁えて行動できていたら、あの花の宴の騒乱は起きていなかったであろうし、そう思えば意外な展開ではないとも言えるかもしれない。これまで横柄な行動が許されていた人たちだからこそ、頭を押さえつけられて従わされる環境に我慢していた抑圧が溜まり、あの場で爆発してしまったということだろうか?
――権力って怖いなぁ。
雨妹は他人事のようにそんな感想を抱く。
「その通りです、人とはそうそうすぐに変わりませんよ」
燕女史も立彬の意見に同意したところで、いよいよ皇后の元へと向かう。
「皇后陛下は寝所から動いておられませんので、おそらくはそちらにいらっしゃるでしょう」
そのように説明する燕女史の案内で、その寝所にたどり着いたのだが。豪奢な装飾が為された扉の周辺には不自然なくらいに誰もいなかった。
「全て人払いをされたのですか?」
立彬がその不自然さが気になったようである。太子付きとして、このような事態であっても主が居る部屋に誰も守りを残さないなど論外なのだろう。この立彬の疑問に、燕女史が眉をひそめて見せた。
「呉殿曰く、元々人が多く配置されていないのだそうです。皇后陛下が嫌がられているのだと、馬殿から理由を聞かされていたらしく」
そしてその少ない人員も今は全ていなくなっているのは、皇帝来訪と馬が出払っているのとが重なったせいかもしれない。相当訳ありの人員配置をしていて、こちらに置くのは誰でも良いわけではなかったのだろう。
「わたくしが皇后陛下にお会いするのに待たされているのは別の部屋で、いつもそこで使いの者から皇后陛下のお言葉を聞かされるか、ぶ厚い御簾越しに会話を交わすのみです」
燕女史がそう語って口惜しそうに唇をかむ。ならばその御簾の向こうにいるのは、本当に皇后であったのかは燕女史にはわからないということか。呉の方は寝所に入ることができていたようだが、あちらも当人と会話が可能であったかまでは雨妹も聞いていない。
そんなことを話してから、燕女史が扉をゆっくりと開くと、中は煙たいくらいに香が充満していた。




