640話 こちらが一枚上だった
けれど呉は様々な裏事情を全く顔に出さず、ひとまず皇帝に今の状況について謝罪する。
「お出迎えもままならぬ未熟、申し訳ございませぬ。陛下自らに見込まれたにもかかわらず、皇后宮へわたくしの教育が間に合っていないこと、恥じ入るばかりでございます」
ひたすら反省の言葉を連ねる呉だが、つまり馬やこれまで皇后宮にいた者らは教育が足りない存在であると、皇帝に向かって断じてみせたのだ。これには背後で同じく叩頭していて顔を上げられない者らから、悔しがるような吐息がさざ波のように響く。
――まあ、後ろの人たちにとっては屈辱でしょうよ。
そもそも皇太后が健在であった頃であれば、皇后宮はたとえ皇帝相手であっても下手に出たことがなかったと聞く。皇后はすなわち皇太后の分身であり、皇太后が皇后宮の横柄さを許しているのであれば、誰もそれを咎めることができなかったのだ。
けれど今では皇太后の守りはなくなってしまっている。それがどういう意味を持つのか、皇后宮でも今になってやっと理解できてきた者もいるかもしれない。権力構造で誰かの下になるということは、こういうことなのだ。
叩頭している者らを見渡した父が、短く告げる。
「許す」
「皇帝陛下のご慈悲、ありがたく思います」
そう言いながら深々と頭を下げる呉の仕草は、裏事情を知っていれば演技臭いものなのだが、そうした疑いを抱く者が皇后宮にどれだけいるのだろう?
「皇后の顔が見たいと思い来た。皇后はいずこであるか?」
茶番のようなやり取りを挟んでようやく本題に入った父に、呉がまた微かに顔を上げる。
「皇帝陛下がいらしたことを、皇后陛下もさぞかしお喜びであることでしょう――それにしてもいつまでもお出でにならないのですけれど」
呉が困ったようにため息を堪えるような表情になる。皇帝の訪れを宮の主が出迎えないなど、あってはならないことである。しかもこのような大行列での訪れなので、他の宮からも注目されているであろうし、実際に皇后宮の外には野次馬が群がっている。失態があれば彼らの口を通し、即醜聞として広まってしまうだろう。
「皇后陛下はどちらにいらしたかしらね?」
呉が背後にそう問いかけると、「ひっ」と短く悲鳴を上げた娘がいる。おそらく皇后の身の回りの世話をする役目の者であろう。
「そこ、お答えなさい」
呉が声をかけた途端、叩頭している者らの意識が全てその娘に向かったのがわかる。彼女はオロオロと小さく周囲を見るが、誰も目をあわそうとせず、助けは出ない。
「皇后陛下は、その、ただいま、少々……」
「どうしました、皇后陛下はこのような場にもお出でになられないのですか? まさか、ご病気なのですか?」
叩頭したまましどろもどろながらも、どうにかしなければと意味をなさぬ言葉を連ねる娘に、呉が問う。
「はっ、はいっ! そうなのです!」
それに活路を見出したように、娘はコクコクと頷いたのだが、病気であることを筆頭女官に報告しないなんて、普通に駄目だろうということには思い至っていない様子である。そして呉が「してやったり」という顔になったのにも、気付いていない。
「ならば見舞いに向かおう」
「……!?」
そこへズバリと踏み込む父の言葉に、娘が思わずというように身を起こしたその顔色は、真っ青である。
「いえ、そのような――」
「まあ、皇帝陛下のお優しさに感謝いたしますわ」
なにか言おうとする娘の声に、呉が言葉を被せてきた。
「たとえ皇后陛下が臥せってしまい対面が叶わずとも、お声をかけるだけであっても、皇后陛下もきっと皇帝陛下の思いやりを感じ入ることでしょう」
「うむ、皇后を案じる気持ちはある」
呉が大仰な仕草を交えて話し、それに父が重々しく頷くのだが、その父の表情があまり心配そうに見えないのは雨妹としても否めない。これが仮面夫婦の限界といったところか。皇后宮側の面々からも戸惑いのざわめきが上がるのは、父の言葉が白々しく聞こえたからだろう。
――けど、病人だと聞けば心配するのは普通だもんね。
父と皇后の間に愛があるかはまた別の話であるとして、父の意見を歯の浮いた嘘だと断じられるものでもない。
けれどそこへ、我慢がならないというように上がる声があった。
「なりません! 馬様の許可もなくそのようなことを決められては困ります!」
先程から矢面に立たされた娘ではなく、その背後にいる女性であった。発言の許可もなく皇帝の面前で声を上げるとは、処されてもおかしくない無礼であり、呉がそちらをすかさずギロリと睨む。
「無礼者めが! それに今の意見、皇帝陛下の発言は、たかが次席女官のそれに劣ると言いたいの?」
「ほう、それは面白い冗談だ」
呉から詰られ、父からも力のこもった視線をその女性の方に向けられ、その辺りにいる者らが一斉に背を震わせた。




