638話 こういうことになりました
雨妹が帰ると、家の前で皇后宮に向かったことを心配していた楊が待っていた。
「なにも面倒事が起きなかっただろうね?」
ここは普通だと「失礼を働かなかったか?」と言われるところだろうに、楊の心配の仕方が微妙に他とズレている。そして心配の方向性が的外れではないのが、鋭いと言わざるを得ない。
「面倒っていうか……」
雨妹がなんとも言えない顔をしたので、楊は悟ったような笑みを浮かべた。
「お前さんを皇后宮にやって、なにも収穫もなく帰って来るとは思っていなかったよ。まあ、中で話そうじゃないか」
楊からなんだか不本意な信頼を抱かれているのには納得いかない。けれどこんな外で大っぴらに出来る話ではないので、ひとまず雨妹宅に入ってから報告することになった。皇后の健康診断決行日が決まれば、雨妹の仕事を調節してもらう必要があるのだし、楊に内緒にするというわけにはいかないだろう。それに何故だか楊は情報通なので、「皇后宮で異変あり」くらいのことは知っている可能性がある。
というわけで、雨妹は一連の流れをかいつまんで説明すると、楊は頭を抱えてしまう。
「なんで小妹はおおごとを掘り出してしまうかねぇ?」
そうぼやく楊からじっとりとした目で見られた雨妹だが、今回はそういう流れであったとしか言いようがないし、自分は悪くないと思いたい――悪くないはずだ、たぶんきっと。
「けれどそうした問題が比較的早い段階で発覚したのは、良かったのかもしれないねぇ。ケシ汁が蔓延した教坊みたいなことになれば、二度もなにやっているんだって話になる」
「あの時みたいに下っ端の方から蔓延する方が、被害が甚大になりますもんね」
楊があの時の大騒動を思い出したのだろう、げんなりした顔になるのに、雨妹も大きく頷く。思えばあれが皇太后失脚に繋がる最初の事件だっただろう。あの規模の騒動が再び起こるとなれば、また後宮から人手がごっそり減ってしまう事態である。けれどどうやら、楊はそちらの心配はあまりしていないようだ。
「一応皇后宮だけではなくて他の宮も調べるんだろうけれど、こういう時期だし、様子がおかしい宮があるなら既に分かっていたはずだ」
なるほど楊の意見はもっともで、そうした取り調べを経て安全だと確認された妃嬪しか残っていないのだろう。それに今回使われたのが香である可能性も、その考えを押し上げていた。
「煙草ではなく香となると、使うのはやはり高貴な方になるんですか?」
「そりゃそうさ。香を品良く使いこなすには、それなりの暮らしをしていないと出来ないよ」
香は単なるいい匂いを嗅いで気分を良くするだけの物ではなく、部屋や衣服に匂い付けをするためにも使うのだ。もし下っ端宮女が香を使っていたら、逆に「異臭を持ち込む」と不満が出てしまう。つまり香を使うには、自分の香りを邪魔だと言われないだけの身分であることが必須なのだそうだ。
「なんにせよ、後始末が下っ端にまで回ってこないことを祈るばかりさ。これ以上人手が減るのは勘弁だよ」
「それはそうですよねぇ」
楊とそんな話をした雨妹だが、そこからはまさに時間との勝負であった。なにしろ皇后の健康診断決行日がいつになるのか、ひょっとしたら翌日かもしれないのだ。
雨妹はまずは医局を訪ねて、突然舞い込んだ大仕事に魂が抜けそうになる陳を励まし。仕事終わりに燕淑妃宮の門を訪ねて、居ればいいと思っていた郭比が以前と同様に閉じられた門を守っていたので、彼女に燕淑妃への伝言を頼んだり。あとは改めて大麻の現物を見て勉強をしたりと、様々な下準備を大急ぎでやった。
そしてやってきた、数日後。
皇后宮へと続く通りを、長い行列がゆっくりと進んでいく。これは皇后宮へ渡る皇帝の一行であった。いつも身軽にできる少人数で動くことを好む皇帝が、大勢を引き連れていることに、居合わせた人々が叩頭しながらも「なにごとか?」とひそひそと囁き合う。
そしてその一行の端の方に、いつもの掃除係の格好である雨妹と、何故か立彬、一般の宦官の振りをしている陳がいた。




