636話 巻き込み決定
あの時、雨妹が見聞きできた皇后と馬の会話は短いものだ。けれどその短い会話の中であっても、馬は皇后が自分の言うことを聞くのだと信じて疑わない態度だった。いくら「皇太后」という皇后に対する必殺技的言葉を持っているとはいえ、皇后だってもう会うことがない元最高権力者を、いつまでも恐れるだろうか?
――それこそ、大麻の影響かもね。
大麻は人の感情を増幅する作用がある。皇后が心の片隅で抱える小さな不安を、大麻がより大きく見せているのかもしれない。
それにしても、仮に馬が大麻を皇后に対して使ったとして、彼女はその大麻をどのようにして手に入れたのだろう? 狙って入手したのか、偶然手の中に転がり込んだのか? さらに大麻の使用を誰かに唆されたのか、それとも大麻を知っていて使うことを思い付いたのか?
色々と疑問があるが、大麻を水煙草として使うならばともかく、香として使う者はそう多くないし、それこそ宗教者が主であろう。しかも雨妹が疑わしく感じるくらいに濃く香ったのだから、かなり質の良い香のはずだ。さすがにそんなものを、なんの伝手もなく手に入れられるとは考えにくい。燕女史の反応からして、それを使用する道士の間では厳重に管理されているものなのだろう。
ならば大麻香の入手先で考えられるのは、東国の間者の置き土産だった可能性だ。前世でも大麻は古来世界中で使われていたものなので、ここでも崔国のみが使うわけではないだろう。そしてそれを馬が密かに隠し持っていたのを、取り調べで見逃されたのかもしれない。なにしろ後宮全体を巻き込んだ大騒動だったので、後始末も膨大な作業だったのは当然だろう。ならばその過程で見落としがあっても不思議ではない。
ついでにこの大麻問題と、最近皇后が酒宴を開かなくなったことに、なにか関係性があるのだろうか? そんな考察をしてしまう雨妹だが、それらについては後でいい。
――今考えるべきは、皇后を大麻から離すこと!
雨妹がそう意識を切り替えると、呉の方も俯いてじっくり考えるようにしていたのが、スッと顔を上げた。
「では雨妹よ、皇后陛下はまだ間に合うと考えますか?」
「それは……」
この呉からの問いかけに、雨妹は慎重に言葉を選ぶ。
大麻の依存性は、前世でも論争となりがちな問題であった。けれど医療関係者としての意見ならば「依存性はある」と言うし、同時に手を尽くしもせずに「間に合いません」と言うべきではないとも思う。
あらゆる依存性のある物事には「個体差」が存在する。重篤な依存性があるものを除くとして、例えば煙草を止めたいと思ったとしよう。どんなに依存回復プログラムを重ねても煙草を止められない人もいれば、自分の意思のみで煙草を止められる人もいるのが「個体差」だ。だからこそ依存が少ない方の情報だけを切り出して「依存は軽いので安心です」なんていう事が言われて、それを信じて泥沼に嵌る人がいるのである。
まあ、それはそれとして。
今はひとまず、皇后が依存から脱することができると仮定して手順を進めていくべきであろう。皇后を今の地位のままに据えるのを諦めるのは、全ての手を打ってそれでも結果が出なかった時でも遅くないはずだ。
皇后が花の宴直後から姿を見せていないのであれば、父だって皇后の異変に気付いたに違いない。けれど父が皇后の身辺を怪しんでいなかったのであれば、大麻が使用されてからまだ日が浅いと考えられる。
――それに、案外皇后に使われていた大麻が粗悪品かもしれないし。
なにしろ雨妹も燕女史も現物を見たわけではない。加工の過程が甘い粗悪品であれば、匂いが強いばかりで実際の作用が弱い可能性が十分にある。
けれど雨妹はそうした絶望も希望も顔に出さないようにして、呉に向かって事実のみを話す。
「皇后陛下に対して大麻がどのように使用されているのか、確かめないとなんとも言えませんが。花の宴からの状況的にそう長い期間使用されていないと推測できますし、ならば皇后陛下が健康を取り戻せる可能性は残っているでしょう」
この意見に、呉が渋い顔をして悩み顔になった。
「それが事実となるか、即座に確かめたいところだけれど。さて、そうなると侍医を呼ぶものか――そうするには躊躇うわね」
彼女が侍医を信用していない様子なのは、かつて侍医が皇太后に追従する、偉い人の顔色を見て仕事をする医者だったからだろう。そうした侍医への不満をよく下位の妃嬪から雨妹もよく聞いていたし、大事な局面であればなおさら悩むところだ。
そんな呉へ対して、口を挟んだのは燕女史だった。
「医者選びに迷うならば、医局の医官がよろしいでしょう。特に陳医師は正直者であるので、診察結果が信用できます」
まさかの第三者から陳が推薦される事態である。
「ほう、医局であれば医師の素性は確かですね。なにより、今から医師選びをする時間が省けます」
しかも、呉もこの意見にまんざらでもない反応だ。これは燕淑妃宮からの信頼を勝ち取った陳の人徳であろうが、今回はえらいことに巻き込んでしまっている。
――陳先生、ごめんなさい~!
雨妹は陳へ謝罪の念を送るしかできなかった。




