631話 やはり謎だらけ
大麻はしばらく前に後宮で問題となったケシ汁――阿片同様に、医局に薬として置いてあるものだ。前世では阿片中毒が問題化して取り締まられるようになると、その阿片の代用品として流行った。しかしそれ以前に古来、大麻は宗教儀式に使用されていたという事例が世界各国にあるのだ。
雨妹がすぐにピンとこなかったのは、警察からの勉強会で麻薬としての大麻を阿片と一緒に教えられたのだが、阿片の強烈な臭さだけが印象に残ってしまったのだろう。それに育てた葉が問題になるのであって、麻自体は実が調味料として使えるし繊維は様々な用途があるしで、素材として優秀なのである。
「私がお会いできていた頃の皇后陛下は、そのような香りを纏っておられなかった。どこでこの香を手に入れたのか知らないが、なんという恐れ知らずな……!」
燕女史は怒りか恐れか、それともどちらもなのか、興奮が過ぎて肩を震えさせている。こうなると、大麻を皇后に使ったのは誰で、どこから手に入れたのかという問題が新たに発生するのだが。
「皇太后陛下のお気に入りであった道士様が、香を与えたのでしょうか?」
雨妹は思いついたあり得そうなことを口にしてみる。
皇太后は道士に傾倒していたので、その子分に当たる皇后も同じくであると想像できる。ならば、道士に大麻を使ってもらっていてもおかしくはない。その際に自分でも使ってみたくて、現物を分けてもらっていたのだろうか?
「あり得ぬ!」
この雨妹の考えを、しかし燕女史は強く否定した。
「香を正しく使うことは、高位の道士としての誇りである。それを道士でもない者に勝手に使わせるなど論外!」
燕女史が初めて見る荒ぶり様を見せる。
「ましてや、あれはそのように香りが鼻につくような使い方をするものではないのだ。あの方くらいに高位の道士が、処方を誤るなど起こるはずがない。どれほど金を積まれたとしてもだ!」
なるほど雨妹の意見は、燕女史にはとてつもなくあり得ないことであったようだ。信用やら知識やらというより、道士として外道に落ちる見下げ果てた行いということなのだろう。
――そう言われてみれば、ないのかなぁ?
雨妹が知るあの道士は気位が高そうであったし、第一そのような馬鹿な真似をせずとも、道士として己の権威を示すくらい、真っ当な手段で十分達成できるのだ。道士仲間から見下され立場を失するような危険を、自ら侵すことはない。
それに香と言えば、友仁との出会いのきっかけであった文君の折檻事件を思い出す。あの時折檻現場に踏み込んだ時にも香が焚かれていたが、あのように独特な匂いであった覚えはない。
――なら、あの道士様は無関係かも。
ならば香を使用した何者かがどこから手に入れたのかというと、民間で出回っている品である可能性を考えなければならないだろう。この国では大麻を水煙草のように楽しむ地方もあるということを、宮女仲間から聞いたことがあるので、手に入れようと思えばできる代物なのだ。
――でもあの人から香った匂いは、水煙草として使ったにしては濃かった気がする。
水煙草とは、煙を瓶に入れた水に潜らせて濾過する機器に通してパイプで吸うので、あんなに匂う程にはならないだろう。道士が使う香としての大麻も、燕女史の言葉からするとそこまで濃くして使わないようだ。それにどのような使い方であれ、皇后が自ら大麻を買いに出かけるわけもなし、誰かが手配していることになる。
いや、そもそも本当に大麻の匂いなのかの確認が必要であろう。
――私も記憶があやふやだからなぁ。
ひょっとして燕女史が確認すると、全く違った匂いだったと言うこともあり得るのだ。やはり、一度現場を確かめてみたいと思い、雨妹は燕女史に提案する。
「匂いの正体を知りたいですね。あれだけ匂いがご本人に染みついているならば、香を使用した部屋はさぞかしより濃く臭っているはず。なのでその部屋を覗けないでしょうか?」
「ふむ、想像で語るのは良くないことだし、必要であるな」
これに燕女史も同意するが、次に「それはどの部屋であるか」という問題が新たに発生する。なにしろこの皇后宮は広いのだ。
「皇后陛下が使われる範囲といっても、これまた広いでしょうし」
「であれば、呉殿に伺うのが良かろう」
雨妹が悩ましく零すのに、燕女史から解決策が提示される。そう言えば雨妹も掃除が終わった報告があるので、そのついでにちょっと聞いてみるにはうってつけだ。
「では早速伺いに行くために、ちゃっちゃとここを片付けます!」
というわけで、雨妹は回廊に出していた装飾品だった物を後で回収できる場所へと置いてくると、燕女史と一緒に呉を訪ねることにした。




