629話 不思議なやり取り
ひとまず雨妹は部屋の隅に寄って深めに頭を下げておく。
女官はそんな雨妹の姿なんて目に入らないようで、視線も寄越さずに、しかし床の散らかった室内を一瞬不快そうに見やってから、ツカツカと入ってきてあの女性の前に立つ。
「お探ししていたのですよ? お身体に障りますゆえ、戻りましょう」
どうやらこの女性を探していたらしい女官が、心配するような声で優しく声をかけた。雨妹が室内で空気になるべく努めながら様子を眺めていると、女官はぼうっと立っている彼女の肩に両手を置く。
「ああ、皇太后陛下がご心配されましょうね?」
「……!」
女官がそう述べた途端、女性がビクッと身体を震わせ、少し良くなったと思った顔色がまた悪くなった。ひそめてもいない声であったので、その言葉は雨妹の耳にも聞こえたのだが、うっかり身動きしないように最大限我慢しながらも、全身が耳になったような心地になる。
――また皇太后陛下かぁ。
花の宴に起きた東国兵襲撃事件の後、東国兵を引き入れる原因を作った責任で後宮を出され、尼寺行きとなった皇太后は、もう表舞台に立つことはない。
『皇太后陛下の了承がないと、怖くてなにも出来ないのですって』
雨妹を皇后宮の門前まで出迎えた際の呉の言葉が、雨妹の脳内で再生される。皇太后の名が、この皇后宮ではまだ現役で影響力があるらしい。
「さあ、お連れしてちょうだい」
そして女官が連れていたお付きに命じると、お付きは女性を優しく支えるように、それでいて拒否させる気がないように促す。雨妹が顔を伏せつつも上目遣いで必死に様子を窺ったあの人は、下を向いて引っ張られるままに歩いて行った。
結局女官もそのお付きも、雨妹の存在に目も向けないままである。
こうして誰もいなくなってから、雨妹はようやく頭を上げた。
「ぷはぁ~!」
いつの間にか息まで止めていたようで、雨妹は大きく深呼吸をする。皇后宮付きではない一般の下っ端宮女は、あの女官にとって存在しないものであったようだ。まあ、妙な難癖をつけられるよりもその方がいい。
「けど、嵐みたいだったな」
なにより色々と情報が多かった。一仕事を終えたかのような心地であるけれど、雨妹はボーッとしている暇はない。何故って、掃除はまだ終わっていないからだ。
というわけで、床に散らかしたままの剥がした装飾をそのままで使えそうな物、ちょっと手入れが必要な物、ごみになる物とに仕分けしていく雨妹であったが、やはりどうしても先程のやり取りのことを考えてしまう。
――あの幽鬼みたいな人は、皇后陛下だったのかな?
雨妹とて結構最初の方に薄々その可能性を考えてはいたが、そうだと断定できずにいたのは、雨妹が知る皇后の姿とはあまりに違っていたからだ。
皇后の姿は、花の宴で遠目に見たことがある。その時はもっと「私は皇后だ!」という態度で堂々としていて、あんな病的ではなかったように思う。先の花の宴から今までに、皇后に一体なにがあったのか?
それにその皇后に対して言葉は丁寧であっても、態度が見下しているようであったあの女官も気になる。あの人がひょっとして次席女官、かつての筆頭女官だろうか? だとすると、嫌な予感がプンプンするのだが。
「それにあの匂い、なんだったっけかなぁ~?」
頭は他の事を考えながらも手はしっかりと動かすという、器用なことをしていると無事に仕分けは終わった。仕分け済の物を庭園側の回廊に一旦出してしまえば、仕上げの掃除をするのは慣れたものですぐに終わる。
こうして無事、室内はあの居酒屋兼ホストクラブ風から無事に脱して、本来の姿を取り戻した。
「ふふん、これでどうよ!」
雨妹が我ながら見違えた部屋の様子に一人得意げに胸を張った、その時。
「雨妹、掃除は順調か」
先程あの女官が現れた出入り口から、今度は燕女史が顔を出した。




