628話 現れたのは
「誰ですか?」
雨妹が回廊の方を見てみれば、そちらの出入り口に楊と同じ年頃くらいに見える女性が立っていた。けれどその格好に、雨妹はギョッとする。その女性は夜着姿のままで、見れば足は裸足ではないか。暗がりで遭遇すれば幽鬼かと思ったかもしれない。
女性はその裸足でひたひたと掃除中の元酒宴部屋に入って来るが、柔らかそうな足から血が滲んでいた。
「あの、それでは御足が痛みます!」
「なにをしているか?」
雨妹は止めようとするが、彼女はそれが聞こえないようにもう一度そう問うてくる。ひょっとして皇后宮の宮女ではないことで、なにかを疑われているのだろうか?
「私は、掃除を頼まれて宮の外からやってきた掃除係で、こちらの部屋の片付けをしているところです」
雨妹はそう答えながら、その女性から香る酒と煙草の匂いが妙に鼻についた。
特に煙草の匂いが妙に鼻につく。土臭い枯れ草のような、けれどいい匂いでもあるような、どこか鼻の奥をツンと刺激する香りだ。
――いや、これは煙草っていうか、香かもしれないな。
けれど、なにか引っかかる匂いだ。なんだろう、知っている気がするけれどその知識が遠いところにあって、どう頭を巡らせてもそれに届かずにモヤモヤする。
「片付け……ならば、あれらも捨てられるのだな」
雨妹のそんな様子など気にすることなく、女性は装飾を剥がしてごちゃごちゃとしている部屋の中を見渡す。なんと、片付けで即捨てるに繋げるとは、それは掃除係として聞き逃せない考え方であり、雨妹は思わず反論していた。
「いいえ、捨てませんよ。使える物は再利用いたします」
多少趣味の悪い装飾になっていたとしても、それは組み合わせの悪さであろう。場所が皇后宮なだけあって、使われている品の一つ一つは高価なものばかりなのだ。
「この世に捨てても良い物などありはしません。例え不要になって燃やしても、その燃えた後に残った灰だってなにかに使われる。この部屋も物も、全て別の用途で生まれ変わるのです」
そうでなければ、この後宮はあっという間にごみで埋め尽くされてしまうだろう、というのが掃除係としていつも言い聞かされる心得である。安易にごみと断定することなかれ。
この雨妹の掃除係として真っ当な意見に、女性がまるで異国の言葉を聞いたかのようにきょとんとしている。
「なにも捨てないのか?」
理解できないという様子の女性に、雨妹は大きく頷く。
「ええ、人によっては私が述べたことを『捨てる』と表現するかもしれませんが、それはその人が、己の手を離れてしまった品のその後を知らないだけです」
「知らない……そうか、そうなのか」
幽鬼のようだった女性の顔に少しだけ生気が差したような気がして、そこで雨妹は「おや?」と思う。
――この人、どこかで見たことがある気がする。
会話をするような相手ではなく、本当に「見たことがある」くらいだと思うのだが、自分はどこで彼女を見ているのだろうか? それにこの女性の着ている夜着は上等なものであるし、そもそも皇后宮を夜着でフラフラするような立場とはなんだろう? 皇后宮付きの宮女や女官であれば、宿舎は離れているのでこのように夜着でここまで立ち入ることはできないはずだ。ということは――
「かような所にいらしたのですね」
その時、雨妹の思考を遮るように声が割り込んだ。
ハッとした雨妹が振りむけば、庭園側ではない方の出入り口にお付きを従えた女官らしき人がいた。きらびやかな衣装を身に纏っており、年頃は呉よりも年上だろうか? 皇后宮でも確実に上位にいる身分の人なのは間違いないだろう。そしてなによりも、全体的にすごく派手だ。
――この宮で我が世の春っぽい人、ちゃんといたじゃんね。
その女官を見た雨妹は、思わずそんなことを考えてしまう。




