第1話 世界の病巣 — 呪いと悲願
――二日前。
王都は、穏やかな朝を迎えていた。
だがその静けさは、まさに嵐の前の静けさだ。
誰も気づかぬうちに、世界を揺るがす未曾有の危機が、すぐそこまで迫っていた。
白亜の城の最奥――幾重もの結界に守られた秘宝の間。
そこには、長きにわたり封じられてきた一つの宝がある。
【世界律の鍵】――世界の均衡を司る秘宝。
その存在は王家とごく一部の高位術者しか知らず、厳重に封じられてきた。
この鍵の力は絶大だ。
ひとたび封が緩めば、死界と現界の境界は曖昧になり、亡者が舞い戻る。
蘇った亡者は、生前の半分ほどの大きさに縮み、色はモノクロに変わる。
死後の時間が短い者から順に、人格や能力を保ったまま蘇るが――それは束の間。
一年を超えれば人格は崩壊し、人を襲う理性なき「死体」と化す。
――その日。
王都の祈祷最高顧問、大魔導士ゼギンアスは、水晶玉に映る光景に釘付けになっていた。呼吸は浅く、手は汗ばみ、指先が小刻みに震える。
水晶の中――
異形の悪魔と契約を交わす、悍ましき影。
赤黒く光る古の契約紋が、巨神の胸に灼き付けられていく。
その文様は生き物のように脈動し、鼓動に合わせて淡く明滅する。
耳鳴りにも似た低い唸りが響き、瘴気が肌を刺し、空気を重く淀ませる。
やがて灼けた鉄の匂いが、水晶越しにも鼻腔を突いた。
五メートルを優に超える異形の巨体――全身は黒鉄色の硬質な皮膚で覆われ、火炎も冷気も雷撃も寄せつけない。
剣も矢も、その肉体に致命打を与えることはできない。
赤黒い双眸には、夜空の星を握り潰したような禍々しい光が宿っている。
肩に担がれた巨槌<バラ=サグ>は、星喰いの鉱鉄で鍛えられた破滅の象徴。
ゆらりと重みを移すたび、空間そのものがわずかに軋んだ。
「グレイデス……」
水晶玉を見つめながら、ゼギンアスは息をのんだ。
かつて王都軍を率いた英雄は、もはや人ではなかった。
その異形の姿で、彼は一瞬、誰も見ていないかのように空を仰いだ。
その双眸に、亡き妻の面影がよぎる。
――必ず、取り戻す。たとえ世界を壊してでも。
「まさか……このようなことが……!」
ゼギンアスは押し殺したような声を漏らし、水晶玉を抱え込むように持ち上げた。
絨毯を擦り切らんばかりの勢いで、玉座の間へと駆ける。
「王よ……! 緊急事態にございます……! グレイデスが、【世界律の鍵】を奪うべく、王都へ向けて進軍を開始しました!」
玉座の前で立ち止まり、ゼギンアスは深く息を吸い込んだ。
しかし、吐き出すまでに数拍の沈黙が流れる。
「……それだけではありません」
声がかすかに震えた。
「グレイデスには、魔法も武器も……一切通じません」
重臣たちの顔色が、一斉に白くなる。
《生死逆転の呪い》。
ゼギンアスは喉を鳴らし、言葉を搾り出す。
「……彼を倒した者の生死が、逆転いたします。
すなわち――グレイデスを打ち倒した瞬間、その者は即座に命を落とすのです」
玉座の間が音を失った。
誰もが息を呑み、背筋を冷たいものが這い上がる。
やがて王が、かすれた声で問う。
「……それだけなのか?」
ゼギンアスは歯を食いしばり、さらに告げた。
「いいえ……グレイデスの目的は【世界律の鍵】を用い、呼び戻した妻の手で自らを殺させること。
そして呪いで妻の死を逆転させ、自らの命と引き換えに生き返らせようとしているのです……!」
「そんな……!」
重臣の一人が膝をつき、額に冷や汗を浮かべる。
「……だが、魔法も剣も矢も通さぬ肉体だと聞く。その妻が、どうやって――」
「不明でございます。しかしその答えは……彼の中にはあるのかと」
沈黙を破るように王が問う。
「悪魔は、何を得てこの契約を結んだのだ?」
「……詳細は不明ですが、映像の奥に巨大な竜影が見えました。悪魔が欲する何か――あるいは儀式のための要素を、彼に回収させようとしている可能性が……」
焦燥が広がる。
妻は死後一年を迎え、人格崩壊の直前。
グレイデスは【世界律の鍵】を求め、進軍を開始した。
しかも彼は独りではなかった。
その背後には、悪魔ナグ=ソリダが編み上げた三つの影が控えていた。
かつて王都に名を馳せた“伝説の三大将軍”――しかし、それは本人たちの蘇生ではない。さすがの悪魔といえど、完全な死者の蘇生は叶わぬのだ。
残された骨や武具から採取した微細な“魔的因子”をもとに、悪魔の魔導で編み直された霊鎧兵。魂の欠片を核に持ちながらも、肉体は精緻なレプリカに過ぎない。
その命はわずか五日間。だが、それで十分だった。
「王都軍を動員せよ!」
王の号令。
騎士団長エルダンを筆頭に英雄たちが集結する。
「撃てぇ!」
耳を裂く轟音、肺を圧迫する衝撃風、舞い上がる砂埃で視界が白く染まる。
だが雷撃は皮膚を滑り、炎は弾かれる。
「通じない……!」兵士の声が掻き消え、次の瞬間、防壁ごと吹き飛ばされた。
国境の第一陣は蹂躙され、通信水晶はひび割れて光を失った。
「……部隊からの連絡が……途絶えた」
エルダンの喉がひりつく。
*
いったい、何が……この国に降りかかろうとしているのか。
王座の間に戻ったゼギンアスは、かすれた声で告げる。
「……王よ……この戦い、我らだけでは……」
重苦しい沈黙。
誰もが悟っていた。
――これは、まだ始まりにすぎないことを。




