第7話 序章終焉 ― 生まれ落ちる最凶の駒
──死界の境界、虚の祭壇。
そこは、色彩という概念そのものが崩壊したかのような光に満ち、上下すら判別できぬ異形の空間だった。
幾万を超える封呪鎖が宙を走り、漆黒の岩盤を螺旋状に縫い止めている。
その中心に――。
深淵から滲み出すように、ただ一つの影が漂っていた。
悪魔──【ナグ=ソリダ】。
だがその姿は、単なる影ではない。
黒き法衣をまとった長身の魔導士の幻影。
痩せこけた指先、底知れぬ紅の瞳。
フードの奥に浮かぶ顔は実体を持たぬはずなのに、ただ視線を浴びただけで理性を削り取られる威圧を放っていた。
そして――声なき囁きがあった。
それは耳に届くのではない。魂の奥底を直接掻きむしるように。
「……まだだ。まだ届かぬ……か」
祭壇に刻まれた巨大な魔術陣。
その中心に描かれた人型の封呪線の胸元で――蒼き魔光が、心臓のように脈打っていた。
それは、グレイデスの胸に刻まれた『楔』と共鳴し、儀式の刻限を告げていた。
この**『魂蝕の契の儀式』**を完成させるには、二つの供物が必要だった。
――古龍が遺した叡智の結晶、龍眼の魔核(龍の蒼き両眼)。
――そして、器たるグレイデス自身。
しかし。
龍眼はいまだ封呪の箱の中。
そしてグレイデスは「渡さぬ」と宣言した。
「……鍵の奪取。妻の蘇生、か」
ナグ=ソリダは虚空を漂いながら冷ややかに吐き捨てる。
その声には、苛立ちだけでなく――人の愚かさを愛でるような歪んだ興味が混じっていた。
「滑稽だ……されど、美しい。人の情念というものは」
計画は狂った。
本来ならば、今頃グレイデスが鍵と共に現れ、儀式はすでに終焉へと至っていたはずだった。
だが、彼は言った。
「――まだ渡さぬ」と。
彼が殺られる可能性もある。
ここへ来る保証もない。
◇
その時――。
残っていた魂糸の二本が、立て続けに断ち切られた。
「……なんだと?」
ナグ=ソリダの紅い瞳に、濁った閃光が走る。
次の瞬間、低く震える声が空間そのものを軋ませた。
「我が“三大将軍”。幾千の血と魂を費やし、精錬を重ねた至高の兵どもが……
あの子供らごときに屠られるとは。――愚弄も甚だしい」
轟、と。
岩盤を締め上げる封呪の鎖が一斉に鳴動する。
祭壇そのものが悲鳴を上げ、空間に罅が走った。
やがて――。
深い沈黙ののち、悪魔はふっと息を吐くように声を落とした。
その声音は怒りを飲み込み、なお冷ややかに濁っていた。
「……まあ、子らは後でいい。
まずは次の策だ。確実に、奴をここへ引き戻すための」
◇
指がひとつ、虚空を弾いた。
祭壇の魔術陣が再び脈動を始める。
封呪鎖が軋み、無数の魂片がゆらりと浮かび上がった。
死せる者の履歴。
魔獣の残滓。
人の犯した“闇”。
それらが幻影となっては現れ、選別され、また消えていく。
光の粒子のように、しかしそのひとつひとつが呻き声を孕んでいた。
やがて――。
ナグ=ソリダの指先が、ひとつの影の前でぴたりと止まった。
「……ほう。これは」
輪郭だけの存在。
だがその内部では、押し殺した獣が鉄格子を噛み砕くかのように“何か”が荒れ狂っていた。
怒り。怨嗟。空虚。
言語すら持たぬ負の感情が渦を巻き、触れるだけで焼き尽くす凶意だけが形を成していた。
「――《氷蜜の道化》ピエナ・クラリス。
未完成ゆえにこそ、予測不能。……だが、それでよい」
ナグ=ソリダの口元に、不気味な笑みが灯る。
「耐えられるのは五日――それ以上は崩壊する。
しかし、囮として、刺客としては十分だ。
奴をここへ引きずり出す……最強の“駒”としてな」
祭壇に新たな紋章が刻まれる。
影は次第に肉体を得ていき――白髪、紫の瞳、サーカスのような装束を纏う少女の輪郭が現れた。
無邪気な少女の瞳が、ナグ=ソリダを見つめる。
「ねえ……おまえ、どのくらいでパリンって割れるかな……試していい?」
木の棒に、蜂蜜を煮詰めて垂らし固めた『氷蜜棒』を口にくわえ、
ちろりと舌で転がしながら――無邪気に笑う。
だが、その背後には世界を壊すほどの魔力が渦を巻いていた。
◇
その頃、現世。
湖畔で、チートトリオはかろうじて一つの勝利を掴み取った。
だがその代償はあまりに大きく――そして彼らは知らなかった。
同じ瞬間。
別の場所で、“より深き闇”が静かに目を覚まし始めていたことを。
──これは終わりではない。
むしろ、すべての“始まり”にすぎなかった。
次に迫るのは――
蒼鏡湖へ歩みを進める、無敵の【堕ちた英雄】グレイデス。
その背後に群がる、王都最大の盗賊団プーランド・ソープ。
そして悪魔の手で生み落とされた“最凶の駒”――ピエナ・クラリス。
満身創痍の三人に、迎撃の力は残されているのか。
別働のエルダンが託された物資は、間に合うのか。
すべての歯車は、次の戦場――蒼鏡湖で噛み合おうとしていた。
──『第一幕 終焉序奏』終幕。




