第6話 束の間の休息─迫り来る影
──王都・レオグラン城。
水晶に映し出された蒼鏡湖の光景を前に、広間は割れるような歓声に包まれた。
黒羽が舞い散る戦場で――三人の若き戦士が立ち尽くし、三大将軍の巨影は大地に沈んでいた。
「……倒した、のか……!」
「三大将軍が……!」
「信じられぬ……だが、確かに!」
老臣たちが顔を見合わせ、誰もが震える声で言葉を漏らす。
書記や侍女、従者までもがざわめき、思わず両手を合わせて祈る者もいた。
「これで……これで国は救われる……!」
「蒼き瞳の勇士たちがいる限り、我らはまだ戦える!」
長く続いた暗雲が晴れたかのように、城内は一瞬、歓喜の渦に包まれた。
玉座の背後に並ぶ兵たちでさえ、かすかに拳を握りしめ、顔を綻ばせていた。
――まるで、すべてが救われたかのように。
しかし。
「……まだ、なにも終わってはおらぬ」
王の低い声が広間を凍らせた。
浮かれていた老臣たちは、息を呑み、口を閉ざす。
その沈黙を切り裂くように、ゼギンアスが一歩進み出る。
「確かに三大将軍は討たれました。だが――」
鋼を擦るような声が響いた。
「最大の脅威は健在です。
悪魔と契約したグレイデス。
そして、いまや彼に随行し、影の護衛となっている王都最大の盗賊団。
……あの三人の戦いは、むしろここからが本番なのです」
玉座の言葉と将の断言が重なり、広間の空気は蒼ざめた。
歓喜は掻き消え、誰も息を吸うことさえ忘れた。
――残されたのは、未来の見えぬ、重たい沈黙だけだった。
◇
蒼鏡湖――。
王都の緊張と絶望とは裏腹に、湖畔の岩陰では焚き火が穏やかに揺れていた。
つい先ほどまで血と焦げ跡が広がっていた戦場の隅で、三人はまるで別世界のように束の間の食事を始めていた。
◇
ニルが魔糸を垂らし、大魚を釣り上げる。
肩口の包帯には、まだ鮮血が滲み、焼けるような痛みが生々しく残っていた。
ビズギットは木立から現れたイノシシに雷を叩き込み、豪快に仕留める。
自ら焼いた脇腹の痛みに、時折顔をしかめていた。
そして――
ニルがそっと手をかざした。
「《倍化術式》――」
魚も肉も、ぶるりと震えて――一気に二倍。
大木を削った串に突き刺し、焚き火の上へとかざす。
滴る脂が、パチンと火に落ちる。
――ジュワァァッ!!
香ばしい煙が、ゆらゆらと青空へ昇っていった。
「おまえらの魔法、便利だなぁ……最高かよ!」
バッドレイの目がギラリと光る。
次の瞬間――
「うんめぇぇぇ!!」
頬をパンパンに膨らませ、両手の、串刺しの巨大イノシシ肉と魚を交互にかぶりつく。
ガブッ、ガツガツ、バリバリッ!!
油まみれの口元が、笑顔と一緒にギラついていた。
足元には、もう山盛りの骨が積み重なっている。
◇
「……おい。二倍のイノシシ肉って、おまえ、六頭分食ってんぞ」
ビズギットが眉をひそめた。
バッドレイは魚の骨をしゃぶりながら、気楽に笑う。
「だってよー。“血戦<ブラッドブースト>”ってやつ、すっげー栄養食うんだわ」
骨をカリッと噛み砕き、ペッと吐き出す。
「傷つけば傷つくほど力は上がる。最後は完成形で、ほぼ不死身。……でも持って五分な」
バッドレイは骨を指で弾き、笑みを浮かべて続ける。
「その間に――体内の栄養を一気に食いつぶす。だから戦い終わったら、“食わなきゃ動けねぇ”んだ」
◇
「……五分しか?」
ニルの蒼い瞳が、焚き火越しに彼を探る。
毛穴からは、まだ赤黒い霧がじわりと漏れていた。
「五分超えて無理すりゃ――全身から血が噴き出して、呼吸も止まる。最後は瀕死。……まぁ死ぬな」
言い放つと同時に、肉へ豪快にかぶりつく。
油が滴り、焚き火がジュッと爆ぜた。
「だから今は――“補給タイム”♪」
◇
「……命懸けすぎだろ、おまえ」
ビズギットは呆れと心配を隠せない。
「でもまぁ――それが楽しいんだわ♪……俺最強だし」
バッドレイは心底幸せそうに笑った。
その顔には恐怖も後悔もなく、ただ“戦いを楽しむ者”の純粋さが浮かんでいる。
「そうですね。私たちが二人がかりで倒した三大将軍を一人で倒したのですから」
「まあ……、ムカつくけど、勝ったのは認めてやるッ!」
ビズギットは焚き火をつつきながら口を尖らせる。
◇
焚き火の炎と肉の匂いが、戦場の血と焦げ跡を上書きしていく。
――ほんのひとときの、穏やかな昼下がりだった。
◇
その頃――
蒼鏡湖へと続く街道。
地鳴り。
大地を砕くような重厚な足音が、森を震わせていた。
陽光はまだ強く、街道の両脇に切り立つ崖を照らしている。
その中央を歩む巨影――【堕ちた英雄】グレイデス。
全長五メートルを超える人型の怪物は、歩くたびに大地を呻かせ、空気そのものを震わせた。
兜のスリットからは呼吸音すらなく、ただ赤い光だけがのぞき、沈黙そのものが異様な圧を放っていた。
その手に握られた巨大な戦鎚は、まるで災厄を具現化したかのように鈍く光っていた。
◇
「構えよォォッ!! 奴を止めろォッ!!」
右の崖の上。
王都軍本隊を指揮する副将――ルシアン・バルグレイの号令が轟いた。
鋼色の鎧に身を包み、長槍を掲げるその姿は、兵の心を束ねる鋭い刃のようだった。
“鉄壁の矛”と呼ばれたその男の声が、絶望の中で兵たちをかろうじて繋ぎ止めていた。
左右の崖から、数百の弓兵が、一斉に火矢を放つ。
真昼の空が赤に染まり、嵐のような火矢が降り注いだ。
――ゴウウウウッ!!
しかし炎は、赤黒い霧に呑み込まれ、灰へと変わった。
「効いてない……!?」「火が……燃え移らないだと……!」
兵の動揺を、ルシアンの鋭い声が押し返す。
「怯むな! 爆薬馬車を落とせ!!」
◇
両側の崖上から、グレイデスを目掛けて十数台の馬車が突き落とされた。
黒い爆薬を満載したそれらは轟音と共に滑り落ち、巨影の足元へ突っ込む。
――ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
閃光と爆炎が街道を呑み込み、熱と衝撃が崖を揺らす。
兵たちは身を伏せ、炎の奔流に耐えた。
「やったか……!?」「……いや、まさか……」
煙が晴れる。
そこに立っていたのは、無傷のグレイデス。
赤黒い霧が爆風を押し返し、剥き出しの胸の黒い紋様がさらに浮かび上がっていた。
◇
「魔導師団、撃てェェェッ!!」
ルシアンの声に応え、崖上に並ぶ王都最強の魔導士たちが一斉に詠唱。
炎。
氷。
雷。
三重の極大魔法が同時に放たれ、天地を裂いた。
轟音と閃光が大地を呑み、街道は昼を越えて白光に染まる。
◇
だが――。
そのすべては、巨体に触れた瞬間、虚しく霧散した。
“無効”。
まるで魔法そのものが存在を否定されたかのように。
「俺の魔法が消滅した……!?」「馬鹿な、最高位魔法だぞ……!」
魔導士たちの悲鳴に、ルシアンは歯を食いしばる。
「下がるな! 槍兵、前へ! 隊列を組めッ!!」
必死に指揮を飛ばす。
だがその声をかき消すように――。
◇
「……終わりだ」
グレイデスの低い声と共に、戦鎚が振り上げられた。
――ズガァァァァァァァァンッ!!!
片側の崖が丸ごと吹き飛ぶ。
数百の兵が悲鳴ごと谷底へ崩れ落ちていった。
「ひ……ひと振りで崖が……!」
続けざまに戦鎚が大地を叩き割る。
地面が蜘蛛の巣のように裂け、裂け目に落ちた兵たちは次々と呑み込まれていく。
さらに薙ぎ払われた戦鎚が森を直撃。
数十本の大木がなぎ倒され、奔流となって兵を押し潰した。
「ぎゃあああああッ!!」
「森ごと……武器に……!」
白昼の戦場は、瞬く間に地獄へと変わった。
◇
「て、撤退だ……!」
ルシアンは叫んだ。
その声は悲鳴にも似ていたが、兵の耳には“唯一の生存の道”として届いた。
「全軍、退けェェッ!! 王都へ戻れ!!」
命を散らした兵たちの血煙の中で、ルシアンは必死に指揮棒を振る。
“鉄壁の矛”と呼ばれた参謀の顔は、今や蒼白に染まっていた。
◇
こうして、王都軍本隊の迎撃は――。
圧倒的な怪物の前に、何一つ成果を残せぬまま、潰走へと変わった。
だが、その背後を影のように随行していたのは――。
大盗賊団、プーランド・ソープ。
彼らは戦場に散った兵の骸から金品や武具をむしり取り、さらに逃げ惑う兵の背へ矢を浴びせた。
血煙と断末魔の中で、嘲笑が不気味にこだました。
「こいつらの死体も生き残りも――全部、宝の山だな!」
「グレイデス様のおかげで、狩り放題ってやつだ!」
地獄に、さらなる醜悪さが混じった。
◇
王・ルヴェリアが言ったように――まだ何も終わってはいなかった。
グレイデスは無傷のまま。
圧倒的な力を誇示しながら、その巨影は確かに、蒼鏡湖へと歩を進めている。
湖畔の岩陰では、束の間の休息に笑みを浮かべる三人。
だが、その背後には刻一刻と――“災厄そのもの”が迫っていた。
◇
別動隊の王国騎士団長・エルダン。
彼がゼギンアスから託された物資は、間に合うのか。
◇
血を燃料に戦う男。
雷を纏い殴り抜く女。
未来を見抜く眼を持つ少女。
全員が満身創痍。
だが、ようやく芽生え始めた“仲間”の絆――。
次の瞬間、迫り来る【堕ちた英雄】の足音によって、試されることになる。
――その戦いこそが、本当の始まりだった。




